2024年03月29日( 金 )

創業家を軸にした社長交代のケーススタディー~サンリオ、ツルハHD、松井証券の三社三様(後)

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 トップ交代がうまくいく会社は栄える。だが、いうは易く、行うは難しとはこのこと。創業家にとって、もっとも悩ましい問題だ。創業家を軸にしたトップ交代には3通りある。1つは、創業家一族への交代。2つは、非同族から創業家への返り咲き。3つは、創業家から非同族へのバドンタッチ。この3つのパターンを考えてみよう。

松井証券:創業家から非同族へバトンタッチ

 ネット証券のパイオニア、松井証券は6月28日の株主総会をもって、松井道夫氏(67)が代表取締役社長を退任する。「会社の代表は社長で十分。二頭政治は百害あって一利なし」との信念から、会長や取締役として残らず、退任後は月収10万円の顧問となり、社業には一切口を出さない。
 社長には、創業家以外から初めて和里田聡(わりた・あきら、49)氏が就任。1994年、一橋大学商学部卒。プロクター・アンド・ギャンブル・ファー・イースト・インク(現・P&Gジャパン)、リーマン・ブラザーズ証券、UBS証券を経て、2006年、松井証券取締役に、19年、専務取締役に就いていた。
 松井氏の退任にともない、創業家代表として道夫氏の長男・松井道太郎氏(32)が取締役に就く。早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了。18年に松井証券に入社した。

 松井証券の歴史は古い。今日まで同族経営を貫いてきた証券会社は珍しい。
 創業者は松井房吉氏。1918(大正7)年5月、日本橋兜町で個人営業の松井房吉商店を創業。「売りの房吉」の異名をもつ。第一次世界大戦後の20(大正9)年3月の株価大暴落で売りまくり、巨万の富を得た。箱根塔ノ沢温泉で、人気俳優の板東妻三郎と張り合って豪遊したという逸話が残る。夢枕に弁天さまが立ったことから、箱根登山鉄道塔ノ沢駅の構内に銭洗弁天を祀る祠を寄贈した。
 1949(昭和24)年、長男、武氏が事業を継承。3代目社長は武氏の実弟の正俊氏。老舗でありながら、同社は弱小証券会社の域を出なかった。

 中興の祖は武氏の娘婿の道夫氏である。旧姓は務台道夫。1976年、一橋大学経済学部卒業後、日本郵船に入社。86年、上智大学大学院で中国考古学を学ぶ松井千鶴子さんと結婚して人生の転機が訪れる。武氏には千鶴子さんしか子どもがいなかったため、養子となる。87年松井証券に入社。95年社長に就任した。

対面営業を廃止し、ネット証券に転換

 『みんなが西向きゃ俺は東』。道夫氏の著書のタイトルだ。証券界の多数派の逆を行く。
 「営業マンはいらない。インターネットで顧客に株を売買してもらう」。道夫氏が、社運を賭ける決断をしたのがインターネット取引である。インターネット時代を見据え、対面営業を廃止し、ネット証券を誕生させた。
 松井氏は雑誌のインタビューでこう語っている。「右か左か、いくら悩んでも最後はエイヤーなんです。経営者に一番大事なことは思い込みと開き直りです。それを恐れて決断できないのは経営者ではありません」(『AERA』01年9月24日号)。

 1999年に株式手数料が完全自由化されたことを受け、手数料が安いネット証券が相次いで誕生した。なかでも、松井証券は返済期限のない信用取引を業界で初めて導入するなど斬新なサービスを投入し、シェアを拡大した。それまで無名に近かった松井証券は、ネット証券の先駆けとなった。
 手数料自由化とデイトレードの隆盛に乗って「1日定額制」「無期限信用取引」など新機軸を編み出し、ネット証券の先頭を走ってきた。弱小証券会社にすぎなかった松井証券は大手証券と渡り合えるまで力をつけ、ネット証券のトップランナーと自他ともに認める存在となった。松井道夫氏は、ネット証券の先駆者としてメディアの寵児になった。

後発のネット証券会社に追い越される

 松井証券が輝いていたのは2000年代の半ばまで。北尾吉孝氏率いるイー・トレード証券(現・SBI証券)の追い上げを食らった。北尾氏は当面の利益を犠牲にしてでも、シェアを拡大する戦略で松井証券を追撃した。その結果、松井証券はイー・トレード証券に口座数、売買代金、預かり資産残高の3部門で後塵を拝した。
 これには松井氏のかたくなな性格も作用している。歯に衣を着せぬ業界批判が真骨頂だ。「銀行・証券・保険業界は大蔵省に飼育された豚」といった過激発言もある。

 ネット取引の顧客の多くがIPO(新規株式公開)銘柄の玉ほしさなのに、松井氏が野村、大和、日興などのIPO大手独占を批判して挑戦状を叩きつけたため、野村などを怒らせて玉が入らなくなり、客離れが起きた。
 松井証券は39歳が役職定年。役員にならないかぎり出世できない。役員も任期は1年だ。「有能な人間ほど早く、辞めろ」と言ってはばからない。経営破綻した山一證券出身者が役員に就いていたが、彼らは次々と辞めていった。役員の大量脱走で経営は迷走した。

 06年、実弟の務台則夫氏が副社長に就いた。東大経済学部を卒業、旧東京銀行からMIT(マサチューセッツ工科大学)大学院を進み、ソロモン、BZW(現バークレイズ)と外資系証券を経て、00年に広告会社アドラインを創業した。松井証券は大勢の役員・社員が辞めたため、万策尽きて、実弟を引っ張ってきたと揶揄された。だが、その務台則夫氏も1年で辞めた。

松井証券が普通の会社になる日

 それでは松井道夫氏が同族経営を断念し、非同族経営に舵を切ったのはなぜか。
 手数料の引き下げ競争は、ついに「ゼロ時代」が視野に入ってきた。ライバルのSBI証券や楽天証券が対面営業や法人関連サービスを拡充して収益源の多様化を図る一方、松井証券は株式売買仲介を中核に置く姿勢を貫いた。
 その差が決算に現れた。SBI証券の20年3月期の売上高にあたる営業収益は1,244億円、本業の儲けを示す営業利益は421億円。楽天証券の19年12月期の営業収益は560億円、営業利益は112億円。対して、松井証券の20年3月期の営業収益は241億円、営業利益は89億円。
 営業収益をみると、楽天証券がSBI証券の半分以下、松井証券は楽天証券の半分以下だ。ネット証券の20年間に、かつて先頭を走っていた松井証券は次々と追い越されて、後続に大差をつけられた。創業家出身の社長でなければ、とうに社長交代に追い込まれていたであろう。

 「古いものを捨ててきた自負心がある」。退任する松井道夫氏は、約30年の経営者人生をこう振り返る。新しいものを生み出すには古いものへの決別は不可欠だが、ネット証券という新しいビジネスのトップランナーになれなかった。
 新社長になる和里田氏は、「ネット証券の置かれている状況は20年前と大きく変わった。顧客との接点をいかに広げるは非常に大きな課題だ。独立系だからこそ業界の垣根を越えた提携ができる」と語り、異業種提携に意欲を見せた。
 吠える人、デストロイヤー。松井氏の呼び名はさまざまだ。全国紙で「株鬼者(かぶきもの)」と命名されたこともある。松井証券を道夫カラーに染め上げてきた証券業界の異端児が、経営から退く。松井証券は、普通の会社となりそうだ。

 サンリオ、ツルハHD、松井証券――。創業家を軸とした三社三様の社長交代。ポスト・コロナ時代の数年後に成果が問われることになる。

(了)

【森村和男】

(中)

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