2024年04月16日( 火 )

音楽に見る日本人の正体(2)「2つの『君が代』」(後)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ
大さんのシニアリポート第92回

 「『君が代』が2つもあるとは考えもしなかった」という声も多く聞かれた。教科書などを通して「歴史の事実」を刷り込まれてしまった多くの人たちにとって、『君が代』といえば、卒業式や大相撲千秋楽などで流される「あの『君が代』」を連想する。しかし、事実として2つ(実際には5つ存在する)存在したのだ。そのことにより明治新政府は大いに困惑する。その事実を紹介することで、日本人のDNAを垣間見ることにしたい。

 明治2年9月8日、越中島で行われた観兵式の際、明治天皇臨御のもと、薩摩藩軍楽隊によって初演された。こうして国歌『君が代』は誕生した。ただ、「歌いにくい」という陰口は日増しに大きくなり、やがて平気でクレームを付ける政府関係者も出てきた。海軍音楽隊長中村祐庸(なかむら・すけつね)もその1人だった。「ここは日本国であり、日本人の感性に合う国歌がほしい」。中村の心のなかには、「初代『君が代』は急場しのぎにつくられた国歌」という意識があった。現在においても一度成立した制度(決定事項)を覆すことは不可能に近い。しかし、「日本人には馴染まない」と決めた中村は、強硬手段に打って出た。「天皇陛下ヲ視スル楽譜改訂之儀上申書」を海軍省に提出したのだ。普通なら切腹ものだ。しかし、海軍省でも「異論」を唱える人が多くいたようで、何のお咎めもなく了承されたのである。

 こうして「初代『君が代』改訂プロジェクト」が動き出した。作曲者のフェントンに「修正」を依頼するつもりで準備中、西南戦争が勃発。その間に、肝心のフェントンが離日してしまう。しかたなく、今度もまた来日中のドイツ人音楽家、フランツ・エッケルトに作曲を依頼する。「君が代」の本歌は、延喜5(905)年の『古今和歌集』に、「賀」の歌として収められている。

わが君は 千代に八千代に 細れ石の 厳となりて 苔のむすまで

 本歌は「君が代は」ではなく「わが君は」となっている。敬愛するわが君(恋人、藩主)の長寿を言祝ぐ歌である。いつしか「わが君」→「君が代」となり、「天皇」と意味がすり替えられていく。エッケルトは初代『君が代』の失敗の原因を「韻を踏まなかったからだ」と判断。そこで自力で作曲することを避けた。海軍省を通じて宮内省に『君が代』の作曲(簡単な単旋律のメロディー程度)を依頼する。宮内省では複数の伶人(楽人)に作曲を依頼。そのなかから伶人奥好義(おく・よしいさ)の作品を選出して海軍省に差し出した。

 エッケルトはそれをモチーフ(動機)とし、単旋律にハーモニー(和音)を付けて編曲。洋楽譜に仕上げた。「洋楽譜として旋律を書き、ハーモニーをつけて編曲した」という事実は、「作品として成り立たせた」という強い自負心につながる。作品としての成功・失敗は編曲のスキルにかかっているといっても言い過ぎではない。エッケルトは『ドイツ東洋文化研究協会』(会報)に、「作曲の依頼を受けた」と報告しているのも、「作品として成り立たせたのは自分だ」という矜持があったからだ。曲の出だし「きみがよは…」をユニゾン(斉奏)とした。そのため次の「ちよにやちよに…」に付けたハーモニーを際立たせ、広がりをみせる効果をもたらした。最後も再びユニゾンで消えゆくように締めるという手法は効果抜群である。

 『君が代』のメロディーは西洋の音階ではない。一見ハ長調で書かれているように見えるが、始めと終わりの音が「レ(D)」で、「ド(C)」ではない。これは雅楽の旋律である壱越(いちこつ)調律旋を用いた。エッケルトはあえて雅楽の旋律を採り入れ、それを西洋風にアレンジしたのだ。「和洋折衷」とすることで日本人の納得性を確保し、実質エッケルトの作品とするというしたたかさを演じた。2代目『君が代』は、明治13(1880)年10月25日、海軍軍楽隊によって試演された。「陛下奉祝ノ楽譜改正相成度之儀二付上申」として、翌日付で施行。同年11月3日の天長節で御前披露され、正式採用となった。これが現在演奏されている『君が代』である。

 思うのだが、当初から国歌制作を外国人に依頼する必要はなかったのではないか。『君が代』の雅楽版というのが残されている。それを正式に「日本国歌」として演奏すればよかったのだ。しかし、日本人は、「ゼロから新しくつくり上げることを見事に苦手」としており、誰かに方向性を示してもらわないと何もできないのではないか。「2つの『君が代』」は、いずれも外国人の手で制作されたものであるが、そのくせ初代『君が代』に「日本人には馴染まない」と文句を付ける。日本人はなんと身勝手なのだろうか。

(了)

<プロフィール>
大山眞人(おおやま まひと)

 1944年山形市生まれ。早大卒。出版社勤務の後、ノンフィクション作家。主な著作に、『S病院老人病棟の仲間たち』『取締役宝くじ部長』(文藝春秋)『老いてこそ2人で生きたい』『夢のある「終の棲家」を作りたい』(大和書房)『退学者ゼロ高校 須郷昌徳の「これが教育たい!」』(河出書房新社)『克って勝つー田村亮子を育てた男』(自由現代社)『取締役総務部長 奈良坂龍平』(讀賣新聞社)『悪徳商法』(文春新書)『団地が死んでいく』(平凡社新書)『騙されたがる人たち』(講談社)『親を棄てる子どもたち 新しい「姥捨山」のかたちを求めて』(平凡社新書)など。

(第92回・前)
(第93回・前)

関連記事