2022年05月19日( 木 )
by データ・マックス

【八ッ場ダムを考える】長野原町ダム担当副町長に聞く〜ダムに水没した長野原町の苦悩と希望(前)

 八ッ場ダムによって、かつて川原湯温泉で賑わった1つのまちなみが水の底に姿を消した。ダムの犠牲になったのは、長野原町の川原畑、川原湯、林、横壁、長野原の5地区、340世帯だ。町では水没住民が中心となり、ダム建設反対運動が激化。1970年代には、ダム反対を掲げる町長が登場するなど、ダム建設は町を二分する深刻な問題と化した。その後、生活再建案が示されたことを機に、苦渋の選択の末、町はダム建設容認へと大きく舵を切ることになった。この苦渋の選択とはどういうものだったのか。群馬県長野原町の佐藤修二郎・ダム担当副町長に話を聞いた。

下流域の犠牲はイヤだ

 ――1952年に八ッ場ダム計画発表以降、水没世帯住民を中心にダム反対運動が展開され、長野原町役場としても、長らくダム建設反対の立場をとっていたようです。この辺の経緯について、教えてください。

佐藤修二郎・群馬県長野原町ダム担当副町長
佐藤修二郎・群馬県長野原町ダム担当副町長

 佐藤 最初は、建設省(当時)から「長原町にダムを建設する」旨、長野原町に直接話があったと聞いています。ただ、ダムができると、川原湯温泉を含めた広い範囲の町域が水に沈んでしまうことから、長野原町も町議会も、八ッ場ダム建設に対して反対を表明しました。もちろん、多くの住民も絶対反対の立場でした。「先祖伝来の土地を沈めることはまかりならん」「ダムができても、ウチの町には何の恩恵もないじゃないか」という意見がありました。

 八ッ場ダム計画発表の約1年後、吾妻川の酸性の水質がダムのコンクリートを溶かすということが問題視され、ダム建設は立ち消えになりました。65年になって、吾妻川上流の草津町の湯川に酸性水を中和する工場ができました。これによって、八ッ場ダム建設計画が復活しました。そのときは、建設省ではなく、群馬県知事から当時の町長、議長に対して、ダム建設に関する相談があったと聞いています。当時の長野原町、とくに住民には、建設省に対する根深い不信感があったので、県が肩代わりしたのではないかと推測します。

 八ッ場ダム建設の復活によって、住民によるダム反対期成同盟が発足するなど、ダム建設反対運動も再燃しました。この反対運動は強硬なもので、74年には「ダム建設反対」を掲げる樋田富次郎氏が町長に選ばれるなど、80年ぐらいまで反対運動が続きました。当時の町民には「下流域の住民のために自分たちが犠牲になるのはイヤだ」という一貫した思いが根底にあったのではないでしょうか。

 ――ダム建設計画をめぐっては、最初は建設省だったが、途中から群馬県に交渉相手が変わったわけですか。

 佐藤 そうです。国との交渉は膠着状態にあったため、見かねた群馬県が間に立って交渉したということだと思います。当時の住民にしてみれば、交渉相手が建設省だと、「一方的にダムを押し付けられてしまうのではないか」という不安があったかもしれません。

条件付き賛成へ「追い込まれた」

 ――80年になって、ようやく県から町に対し、住民の生活再建案が示されました。逆にいえば、それまで水没地区の住民に対する補償などの提案はなかったということになるわけですが…。

 佐藤 そういうことですね。80年まで生活再建に関する具体的な提案は示されていませんでした(編者注:町が説明を拒否していた)。そもそも水源地域対策特別措置法(水特法)にも指定されていませんでしたから(注:八ッ場ダムの水特法指定は86年)、建設省としても、具体的に今のような生活再建案を示すことができなかったのではないでしょうか。

 ――ダム反対からダム容認へカジを切るに際し、長野原町として、どのようなかたちで住民の合意形成を図ってきたのですか。

 佐藤 当時の樋田町長は、生活再建案がどうこうという以前に、ダム建設そのものに反対の立場でした。平たくいえば、県、国が何を提示しようと、説明を受けるつもりはなかったと思っています。

 そんな状況のなかで、県から「とりあえず生活再建案を見てほしい」という打診が何度となくありました。これを受け、樋田町長は「白紙の状態であれば、県からの説明を受ける」旨、表明しました。「ダム建設反対の立場に一切変わりはないが、話だけは聞きましょう」ということです。県と町は、共存していかなければならない関係ですので、そういうところからまずカジを切っていったと思われます。

 「白紙の状態で、県から話を聞くだけ」という前提で、まず町と議会が県から説明を受けました。それから、徐々に住民への説明にも入っていきました。その後、85年ぐらいまで、生活再建案の内容に関する県と、町、住民との意見のキャッチボールが続きました。

 ――たとえば、「温泉旅館の再建はこうする」といったことについて、県と住民などとの間でキャッチボールが行われたということですね。

 佐藤 ええ。温泉については、県が新たに源泉を掘削して、代替地でも引き続き温泉旅館を営むことができるという提案がありました。

 ――ギリギリの交渉の末、長野原町として「八ッ場ダム建設に関する基本協定書」を92年にやっと結んだと。

 佐藤 その通りです。私自身も、町役場職員として、82年以降、八ッ場ダムに関する仕事に関わっていました。これは私個人の見解ですが、白紙を前提とはいえ、住民が直接話し合いに応じたことによって、生活再建案の内容について自然と議論するようになりました。結果的に、あくまで反対だった町長や住民が「条件付き賛成」という立場に追い込まれていったようなところがあります。

 ――「追い込まれていった」ですか。

 佐藤 はい、そういう印象をもっています。

2003年ごろの川原湯温泉のまちなみ(写真提供:長野原町)

(つづく)

【大石 恭正】

(中)

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