2024年04月24日( 水 )

山口FG・吉村猛会長、平取締役降格~「田舎芝居」を観覧しての所感(2)

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ヤクザに付け込まれた住友銀行頭取

 有森隆著『住友銀行暗黒史』の記述を割愛して紹介する。磯田一郎(1913年生まれ)は住友銀行(当時)頭取・会長ポストを歴任。「中興の祖」と呼ばれた。財界の要職も兼務したが、娘への盲愛からヤクザに付け込まれ、「住友銀行の信用をガタガタにした悪辣バンカー」という悪名だけが残った。事の発端は娘の画廊経営の不振。親父として毅然と廃業を迫り、処置すれば済んでいたはずだ。

 優秀なバンカーでも親子関係においては優柔不断になる。画廊の売上づくりに奔走したところから無理が生じた。側近たちも忠誠心よりも我欲を得ることを優先し、泥沼にはまり込む。最後にはイトマン事件を起こして、住友銀行は1兆円に達する不良債権を抱えたといわれる。世間を騒がせた許永中にも頭が上がらない関係になり下がった。磯田は1993年、80歳で死去した。しかし、住友銀行の健全化への道のりは長い時間を要した。

使命感を燃やしたバンカー・八木聖二氏

銀行 イメージ かつて長期信用銀行の1つに、日本債券信用銀行(現・あおぞら銀行)があった。八木聖二氏は1968年4月、同行に入行した。1945年生まれ、広島県出身、東京大学法学部卒。前回(1)で登場した國重惇史氏とは、学部は異なるが同じ時期に学生生活を送っている。八木氏は42歳で取締役に抜擢され、46歳の若さで常務に上り詰めた。ところが、日債銀もバブルに手を染めていた。経営陣のスキャンダル(刑事事件に発展)に巻き込まれて、八木氏は銀行に見切りをつけて退職を決断した。

 八木氏の卓越した能力に鑑みれば、東京でいくらでも活躍の舞台はあったはずだが、職場の先輩であった福岡地所オーナー・榎本一彦氏の招聘を受ける。1998年6月に福岡地所専務に就き、2003年8月に社長に就任。社長に就く条件として、榎本オーナーに「私の流儀でやらせてください」と申し出した。榎本オーナーは「それは当然のことだ」とし、八木社長の方針に一切口を出さなかった。口を挟む余地がなかった、できなかったのである。

 八木社長の判断基準はシンプルだ。「会社にとって必要なものか不要なものか」の判断に基づいて処理していく。事業縮小も大胆に行った。当然、人員削減も敢行した。そして、最大の難題だった1,000億円を超える負債のオフバランス化。これを一気に圧縮してしまったのである。判断基準がシンプルと指摘したが、「己の社長としての使命が完了すれば身を引く」と決めていた。それゆえ、解決すべき課題の処理を終えると、即潔く社長を辞任した。人としての気品が伝わってくる。

 一方、吉村猛取締役は山口銀行頭取に就任した際に、八木氏とは対照的な行動を取った。「田中耕三のオヤジが長期政権を敷いて、やりたい放題やってきた。俺も負けずに長期独裁政権を敷く」と決意したものと考えられる。筆者は、吉村氏に「耕三オヤジの圧政の歪みが目立ってきた。これを解消するのが俺の役目」という使命感がなぜ湧いてこなかったのかと不思議に思う。吉村氏には我欲しか眼中になかったのだろうか。八木氏と違って、人としての気品がまったく感じられない。

(つづく)

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