2024年04月18日( 木 )

『報ステ』古賀茂明氏降板をめぐる問題

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 NETIBでは、政治経済学者の植草一秀氏のブログ記事から一部を抜粋して紹介する。今回は、テレビ朝日番組「報道ステーション」での古賀茂明氏の番組降板をめぐっての問題について触れた、3月29日付の記事を紹介する。


 3月27日のテレビ朝日番組「報道ステーション」で、古賀茂明氏と古館伊知朗氏が古賀氏の番組降板をめぐってバトルを演じたことについて、さまざまな意見が提示されている。問題の本質は日本のマスメディアの行動、及び、マスメディアの中核であるテレビ放送に関する政治権力の振る舞いにある。

 古賀茂明氏の言動について、一部で「テレビでの発言の責任と義務を理解していない」「公共の電波を個人的な恨みの吐露に使う」などの批判が示されているが、問題の本質をまったく理解しない的外れな批判である。
 問題の核心は、(1)古賀氏の主張の評価、(2)古賀茂明氏の降板の経緯、(3)古館氏の言動の一貫性、にある。

 古賀氏は現在の安倍政権に対して厳しい批判の発言を提示してきた。安倍政権に対する評価が分かれるのは当然のことだ。安倍政権の政策運営を高く評価する人もいれば、厳しく批判する者もいる。

 放送法は第4条に次の条文を置いている。

(国内放送等の放送番組の編集等) 第四条  放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。

 四  意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

 報道番組に出演するコメンテーターが示す意見は、本来は、多種多様でなければおかしい。安倍政権の政策運営を支持する意見を提示する者と、これを批判する発言者が登場するのが普通の姿である。この視点で捉えると、古賀氏の発言は、安倍政権を批判する側面が強かったのは事実である。原発問題への対応、イスラム国による邦人拘束事件に対する対応などで、古賀氏は安倍政権の対応を厳しく批判してきた。
 しかし、その主張は非難されるべきものではない。放送法第4条第4項規定が示す、「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」という条文に照らせば、古賀氏のように、安倍政権を批判する見解がテレビ番組で提示されることは極めて重要である。

 古賀氏の主張は、偏向した、特殊なものではなく、多数の国民が抱いている正当な安倍政権の政策運営に対する評価である。こうした政権批判の主張を封殺することが重大な問題なのである。

 古賀氏が番組を降板することになった背景に、この事情が存在することは間違いのないことだと考えられる。「降板」なのか「降板ではない」のかは、言い方次第でどのようにでも説明できる。「今後も出演の可能性がある」として、「降板ではない」と表現することはできても、それは「詭弁」の類いでしかない。「一定の頻度で出演していた状態」を、「一定の頻度で出演させることのない状態」に変えるのだから、これを「降板」と表現するのは妥当である。

 その「降板」の背景に、「安倍政権による圧力」、および「放送会社および番組制作会社の安倍政権への配慮」があると「推察」することは順当である。恐らくそれが「真実」であると私も考える。この点が最大の問題なのだ。
 古賀氏が番組における発言で訴えたかったことの核心がこの部分にあると考えられる。古賀氏は熟慮の上で発言を示したと考えられる。その判断と行動は高く賞賛されるべきもので、これを「私憤」と捉えるのは適正でないと、私は判断する。

 そして、もうひとつ。重大な問題が付随して発生してしまった。古館伊知朗氏の二枚舌疑惑である。
 「録音」によって重大事実が発覚する可能性がある。「録音」は検察の巨大犯罪を白日の下に晒す「巨大な業績」の実績を有する。弁舌巧みな古館伊知朗氏ではあるが、その古館氏の発言が表と裏でまったく違うという事実が発覚すれば、古館氏の発言の信頼性は根底から崩れることになる。

 私はかねてより、テレビ朝日も古館氏も「偽善」を装っているだけで、本質においては他の偏向メディアと変わらないとの見解を示してきたが、この見解に多くの市民が同意する事態が生じるのではないかと予測する。

※続きは3月29日のメルマガ版「植草一秀の『知られざる真実』」第1112号「古賀茂明氏告発を『私憤』として処理するための情報工作」で。


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・植草一秀の『知られざる真実』

 

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