2024年04月17日( 水 )

「キツネ目の男」宮崎学氏死去、江崎グリコ社長退任(前)

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 1984~85年に起きたグリコ・森永事件の「キツネ目の男」として疑われたことで知られる作家の宮崎学が3月30日、老衰のため死去したと報じられた。76歳だった。奇しくも、その数日前の3月24日には、グリコ・森永事件で誘拐被害に遭った江崎グリコの江崎勝久が40年間務めた社長を退いた。

江崎グリコ創立100周年を機に、父から息子への事業継承

 江崎グリコ(株)は22年3月24日、大阪市北区梅田のサンケイホールブリーゼで、定時株主総会を開き、40年間、社長を務めた江崎勝久(80)が会長に退き、長男の江崎悦朗専務執行役員(49)が社長に就任した。江崎グリコは2月11日に創立100周年を迎え、それを機に、親から子への事業継承が行われた。

 悦朗は創業者・江崎利一のひ孫にあたる。1995年3月慶應義塾大学総合政策学部卒。サントリーなどでの武者修行を経て、2004年4月江崎グリコに入社した。08年取締役、10年常務執行役員に昇格。マーケティング本部長として販売政策を指揮した。16年に代表取締役に就任。海外事業を統括する子会社の社長を務めていた。

 グリコ・森永事件の犯人グループが江崎家を襲ったとき、幼い長男の悦朗と次女・勝久と一緒に入浴中だった。父親の誘拐現場に居合わせた当時11歳だった悦朗が受けた精神的ショックは計り知れないものがあったろう。

 グリコ・森永事件から38年が経過した。江崎グリコは創業から2世紀目に突入し、創業者のひ孫である悦朗体制に移行した。だが、世間の記憶からグリコ・森永事件が消えることはない。

創業者は佐賀出身・江崎利一

道頓堀 グリコサイン電光看板 イメージ    新型コロナの報道で、映像が映し出される定番となったのが、大阪・道頓堀を彩るグリコサインの電光看板。1935年に江崎グリコの創業者、江崎利一が、人出が多い道頓堀に目をつけ、ネオン塔を建設したことが始まり。グリコサインは現在6代目だ。

 江崎利一は創意工夫の起業家である。1882年、佐賀県蓮池村(現・佐賀市)生まれ。小学校高等科卒業後、15歳で家業の薬種業を手伝う。海外から大樽に入ったワインを仕入れ、それをビンに詰め替えて安く売る商法で、九州でも屈指のワイン業者になる。

 転機になったのは1919年。行商中に、有明海の沿岸で漁師たちがカキの煮汁を捨てているのを見た。カキにはグリコーゲンという栄養素が含まれているはず、とひらめいた利一は、グリコーゲンでの事業化を思いついた。大阪市に移住し栄養菓子事業の江崎商店(江崎グリコの前身)を創業した。

 頂上効果を狙った利一は、三越百貨店に売り込みをかけた。断られること実に数10回。三越の担当者が根負けしてグリコのキャラメルを売り場に置かせてくれた。1922年2月11日のことだ。この日が江崎グリコの創立記念日となっている。

 栄養価の高さをアピールした「1粒で300m」のキャッチコピー、笑顔のゴールイン印、何が出るかお楽しみの玩具のオマケ付きという斬新なアイデアで大成功を収めた。利一は1980年、97歳で死去する。

江崎勝久社長が自宅から誘拐される

 江崎勝久は、父が若くして亡くなったため、祖父・利一の手で育てられた。神戸大学経営学部卒業、利一が長年にわたり公私ともに親交があった松下幸之助が率いる松下電器産業(現・パナソニック)で修業を積み、66年、江崎グリコに入社。82年に社長に就いた。

 その直後の84年3月、勝久が目出し帽を被った3人組の男たちに自宅から連れ去られる誘拐事件が発生した。当時、日本列島を震撼させたグリコ・森永事件の始まりである。

 犯人グループは10億円と金塊100㎏を要求する脅迫状を送りつけるが、誘拐された勝久は自力で脱出。事件は解決を向かうかと思われた。

 ところが、犯人グループは「かい人21面相」と名乗り、グリコだけでなく、森永製菓やハウス食品など食品メーカーを次々に脅迫。「どくいりきけん たべたらしぬで」と書いた青酸入りの菓子を置くなどして「劇場型犯罪」の走りとなった。

 のべ130万人もの警察官が投入されたが、2000年2月全面時効が成立した。真犯人をめぐって、さまざまな説が取り沙汰されたが、そのどれもが確証を得るものではなく、事件は迷宮入りとなった。

(つづく)

【森村 和男】

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