2024年04月19日( 金 )

【福岡・ベイエリア】きっかけ次第では“化ける”か(前)

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海の中道海浜公園「光と風の広場」
海の中道海浜公園「光と風の広場」

 舞台となっている海の中道海浜公園は、玄界灘と博多湾に挟まれた砂州状の「海の中道」の中央部の東西約6kmの区間において、約540haという広大な敷地で展開されている国営公園である。元々は旧米軍博多基地として使用されていた場所だが、72年の返還後に跡地利用についての種々の検討が行われ、81年10月に全体の約10分の1にあたる約59haの供用開始をもって開園となった。その後、整備が完了した区域より順次供用が開始され、83年7月に「サンシャインプール」、87年4月に「ホテル海の中道」(現・「ザ・ルイガンズ スパ&リゾート」)、89年4月に「マリンワールド(海洋生態科学館)」などの主要施設も次々とオープン。計画面積539.4haのうち、現在までに297.7haが供用されている。

 これまでに同園では、国営公園としては初めてPFI事業を導入し、民間の資金と経営力、技術力などを活用した官民連携による長期的な管理運営を推進してきた。すでにPFI事業として、水族館(マリンワールド)やホテル、マリーナ、テニス場などの管理運営を民間事業者が実施しており、各施設とも利用者数が増加するなどの効果が出ている。今回のPark-PFI制度による「光と風の広場」のリニューアルオープンも、民間活力による新たな賑わい創出・地域活性策として期待が寄せられている。

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 福岡都心から車で約25分という距離感にありながら、玄界灘と博多湾に挟まれた豊かな自然環境に恵まれ、そのロケーションを十二分に活かした滞在型レクリエーション拠点の誕生――。こうした市内臨海部で新たに魅力的なスポットが開発されると、改めて福岡のまちが海を臨む港湾都市であるということを再認識させられる。

 今回は福岡におけるベイエリアの魅力やポテンシャルについて、改めて論じてみたい。なお、ベイエリアとは文字通り「ベイ(湾)」に面した場所のことであり、福岡の場合は厳密にいえば博多湾内のことを指すのだが、本稿では拡大解釈的に、博多湾外の玄界灘に面した臨海部も含めて「ベイエリア」と称することにする。

天然の良港に恵まれ 港とともに発展した福岡・博多

 福岡市は、市域の北側が外海である「玄界灘」と内海である「博多湾」という2つの海と接しており、古来より博多港を核とした港町として発展を遂げてきた。なお、博多「湾」と博多「港」の違いであるが、「湾」とは海などの一部で幅の広い入り込みを形成した領域の天然の地形を指し、人の手による開発が加えられ、船舶が安全に停泊して人の乗降や荷役が行えるようになったものが「港」だ。

 その博多湾は、東西約20km、南北約10km、海表面積約133.3㎢の内湾で、西浦岬(西区)~玄海島、玄海島~志賀島の2カ所で外海である玄界灘とつながる閉鎖的な海域だ。その構造上、外海との海水交換が行われにくく、湾奥部の海水が湾内に滞留する期間は年平均で約1カ月とされている。水深は湾奥部で5m以下と浅くなっていき、湾内の平均水深は10.8m。大潮期における潮位差は2.20mとされている。湾内の潮流は、志賀島や玄海島、能古島、西浦岬などの間で流速が速く、能古島から湾奥にかけては比較的穏やかな海域となっている。
 日本海(玄界灘)に面していながら穏やかな天然の良港で、かつ大陸に近いという地理的な特性から、博多湾および博多港は古来より“海の玄関口”としてさまざまな国・地域の人・物・文化が出入りし、福岡のまちの発展を支えてきた。たとえば志賀島で発見された金印は、西暦57年に後漢の皇帝より奴国王に送られたとされているものだが、当時も福岡は海を通じて大陸との交流があったことがわかる。

福岡のまちは港とともに発展してきた(提供:福岡市港湾空港局)
福岡のまちは港とともに発展してきた
(提供:福岡市港湾空港局)

 平安中期には、那珂川河口東岸に大宰府安楽寺の荘園である「博多庄」が成立。鴻臚館での官貿易が衰えるとともに、宋商人が博多庄など有力な寺社や貴族と結びつき、積極的に貿易活動を行った。このころの博多には宋人居留区が形成され、国際都市として、東アジア屈指の港湾都市となる。平安末期には、平清盛が日宋貿易のための日本初の人工港である袖湊(そでのみなと)を博多に築いたとされている。また、12世紀から13世紀にかけて、大陸からお茶や饅頭、うどんなどが博多に伝来。しかし、2度にわたる元寇で博多のまちも被害を受けたことで、商船の往来は一時途絶した。その後、日元貿易が復活し、室町時代に入ると博多のまちでも交通や経済が発展。明などとの貿易も盛んになり、博多のまちでも豪商と呼ばれる大商人が台頭していった。

 江戸期になると、幕府の鎖国政策によって海外との貿易が禁じられることになった。その一方で、日本国内の海上輸送が大きく発展し、博多では「五ヶ浦廻船」と呼ばれる船で日本各地をめぐり、米や木材などの国内取引が主流に。だが、海外貿易が禁じられたことでこれまでのような活躍の場が閉ざされた博多商人らは、長崎や九州の他の大名が築いた城下町にその活躍の場を求めるようになった。そのため、江戸初期には九州一の大都会だった博多は、長い鎖国の時代を過ぎた幕末には、九州の他の都市と比べて相対的に衰えていったとされる。

【坂田 憲治/代 源太朗】

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