2024年05月19日( 日 )

知っておきたい哲学の常識─日常篇(3)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

福岡大学名誉教授 大嶋 仁 氏

縮小再生産は崩壊をもたらす

イメージ    数学者・岡潔は若いとき政府から派遣されてパリで学んだ。文部省はドイツを薦めたのだが、彼はどうしてもパリに行きたいと意地を張った。どうしてパリだったのかというと、当時パリ大学にガストン・ジュリアという数学者がいて、その人の論文に感銘を受けていたからである。

 その論文のテーマはアイテレーションと呼ばれるもので、ある関数に同じ関数を代入してこれを繰り返すことをいう。ジュリアはこれを繰り返していくとついに秩序が崩壊してしまうことを見とどけ、この現象が必然的に起こることを証明した。

 岡がこの論の何に感動したのかわからない。また、数学者でもない私には、この論の意図するところがつかめない。しかし、同じ関数を代入し続けること自体狂気じみているし、それが最終的に破綻をきたすことは何となく予想できる。

 勝手な推論だが、この論は縮小再生産のことを言っているのではないだろうか。物理学者なら「エントロピーの増大」というところである。ある秩序が少しの修正も経ずに同じ構造を維持し続けようとすると、必ず崩壊してしまう。ジュリアの発見をそのように理解することで、今日生きるための哲学としたいと思う。

 企業にしても、国家にしても、さらには個人にしても、同じシステムを続けようとすると、いつしか根底から崩れる。状況に応じて創意工夫を凝らし、常に修正していかなければ、システムはパンクするようになっているのだ。今うまくいっているからといって安心していると、いつしか雲ゆきが悪くなる。そのとき焦っても、もう遅い。

 人間は好奇心のかたまりであり、想像力に溢れ、これを発揮しているとき楽しさを感じる。その楽しみを失えば、いくら頑張っても心は晴れない。毎日がマンネリ化し、生きる気力が衰えるのである。絶えず創意工夫をすること、これが生きる喜びをもたらす。

 こんなことは成功した企業家が言いそうなことだが、私なら企業家よりもプロ野球の達人たちを見ならう。現在メジャーリーグで驚異的な活躍をし、WBCでも最高殊勲選手に選ばれた大谷翔平をみていると、彼のすごさは常に自分を超えようとしているところにあるのだとわかる。彼はほかの選手たちより上に行くことを目指しているのではなく、少しでも自分の理想に近づくこうと努力しているのだ。この並ならぬ努力の結果が、他の選手のとどかないところへ彼を導いた。そういう彼を見て、自分までやる気が出てきたと思う人は、私だけではないだろう。

 いや、彼は例外的な天才であって、私たちとは別次元なのだ。そう思う人もいるにちがいない。しかし、彼だって、同じ人の子なのだ。大事なのは、今の自分が続けているシステムはそれでいいのか、と自問することだろう。そして、それを壊すのではなく、少しでもよい方向へと改善する努力が必要なのだ。

 現代の日本にもすぐれた若者がたくさんいる。ところが、そういう若者が海外に行かないと輝けないという現実もあることはたしかだ。このことをどれだけの人が認めているかわからないが、若くて意欲のある人材を育てようという気風がこの国には欠けている。

 なぜ、日本では縮小再生産が続くのか。そのほうが安上がりだからだ。金ばかりか、頭を使わなくて済むからだ。これでは、システムの変革などとても期待できない。

 システムというものは一度老朽化しはじめると、加速的に朽ちていく。生産はそのつど縮小され、製品のかたちは同じであっても質的に劣化していく。ところが、現今の日本は朽ちていく旧システムに順応できる人材しか育成しようとしていない。これでは、お先真っ暗である。

 将来を明るく照らす例もある。私が個人的に知っているある家庭には高校生が2人いるが、両親は子どもたちに専門学校へ進むことを勧めている。内容空疎な受験勉強をさせるかわりに、しっかりした技術を身につけてほしいと思っているのだ。もちろん、子どもたちが本当に勉強したいのならば、大学に行くことも可能性として残してある。

 この両親の考え方は、彼らが時代状況をよく見ていることを示している。偏差値にこだわり、高学歴を前提とする旧システムへの挑戦だともいえる。とはいえ、このような家庭は例外的で、学校教育そのものが変わらなければ、結局は何も変わらない。

 小学校の先生が学童になんの疑問も抱かせないような教育、生徒がわかってもわからなくても「はい」という返事を強要する教育、これが続くかぎり縮小再生産は続く。教育者は生徒にいろいろな扉を開けておくべきで、扉はたった1つしかないと教え続けるかぎり、若年者のやる気は失せていくだけなのだ。

 高度成長期が終わったころに少しでも教育変革をしていたら、と今さらながら惜しまれる。バブルに浮かれるかわりに、自己点検をしっかりしておればと。だが、今からでも遅すぎない。縮小再生産をやめようではないか。

(つづく)


<プロフィール>
大嶋 仁
(おおしま・ひとし)
 1948年生まれ、神奈川県鎌倉市出身。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。75年東京大学文学部倫理学科卒。80年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇に立った後、95年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し名誉教授に。

(2)
(4)

関連記事