2024年05月06日( 月 )

知っておきたい哲学の常識(32)─現代篇(2)

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福岡大学名誉教授 大嶋 仁 氏

スピノザに学べ

自然 イメージ    もう40年前のことだ。メキシコから家族連れで日本に来た大学教授が、あるとき自宅に呼んでくれた。奥さんがメキシコ料理をふるまってくれるという。

 小学生の娘さんがいて、スペイン語を忘れないためにメキシコの小学校で使っている教科書を何冊か持っていた。そのうちの一冊をのぞいてみると、「人間は考えます。動物は考えませんが、動けます。植物は考えもせず、動くこともできません」とあった。

 これには驚いた。今どき、こんなことが教えられているとは信じがたいと思った。

 もっとも、40年前のことだ。今ならこんな教科書は使われていないだろう。それは中世ヨーロッパの自然観そのものだった。20世紀に至るまで、それが変更されずにいたとは。

 科学技術の進んだアメリカ合衆国でも、いまだにダーウィンの進化論を認めない学校があるという。西洋の宗教的世界観は、たしかに自然科学の敵なのである。

 それほど宗教の影響力の強い西洋で自然科学が発達したとは、考えてみれば不思議である。科学の源には懐疑があるから、信仰と両立しなくて当然なのだが、信仰心のつよい人の多いなかからそれを否定する思想が出てくるとは、これだけでドラマである。

 中世キリスト教の世界観は、古代ギリシャの自然観と聖書の自然観を矛盾しないようミックスしたものだ。もともとはまったくちがう自然観の合成だから、亀裂が入っておかしくない。しかし、その亀裂が徐々にしか広がらなかった。コペルニクスやガリレオが教会権力に苦しんだゆえんである。

 日本に入った仏教は「山や川や草木にも仏となる可能性がある」というものである。西洋の自然観とは違いすぎる。戦国の世にキリシタンとなり、やがてこれを捨てた不干斎ハビアンは、「キリスト教では神が自然を創造したというが、自然は自然に成ったから自然なのだ」と攻撃した。「自然」という言葉には、「自ら成る」という意味があるのである。

 西洋では宗教の影響が弱まった近代になっても、人間には理性があるのに動物にはそれがないといった人間中心の自然観が支配的である。人間の理性が科学を生み出したことは事実だが、動物たちは自分たちの環境に合わせて生活しているのだから、人間より賢いと見ることもできるのである。

 しかしそうであっても、人類が世界の支配者で、他の生き物の上に立っているという考え方はいまだにつよい。それもそのはず、この考え方を生み出した西洋文明が現代世界を動かしているからだ。

 この考え方が正しいかどうかは別として、それが現代世界の常識となっている。エコロジーとか、サステナビリティーとか、動物愛護とか、自然に優しいこうした言葉は、聞こえはよいが、人類中心主義であることに変わりはない。

 西洋にも、しかし異端児はいる。たとえば17世紀のオランダに生まれたスピノザがそうである。彼によれば、世界にはたった1つの実在しかなく、それは神であり、その神は自然にほかならない。人間もほかの動物も、意識も思想も、身体も天体も、雨も風も、いずれもが神の表れなのである。だから、すべてを愛さねばならない。

 ところがスピノザにとって、愛とは知ることである。神を愛するとは、自然を知ることなのである。

 こんな考えを発表したものだから、異端審問を逃れてカトリックに改宗させられたユダヤ人の彼は、ただちにユダヤ教団から破門され、同時にカトリック教会から異端視された。もっとも、当時のヨーロッパで最も自由な国だったオランダにいたおかげで、市民としては罰せられなかった。

 彼の哲学は自然科学と合致する。アインシュタインなどはスピノザの神なら信じられると言っている。だが、スピノザに言わせれば、そういう科学者もまた中途段階の人間である。神の叡智の破片は認識できても、その叡智には至っていないからだ。

 スピノザで大事なのは、「私たちは自然の一部で、そのかぎりにおいてほかの生物と同列だ」という思想である。私たちが考えをもつのは私たちのおかげではなく、自然のなせるわざだというのだ。この考えは限りなくわたしたちを謙虚にする。

 スピノザの考えを現代において受け継いだのはフロイトである。そのフロイトは人間精神を自然のはたらきとして捉え、そのはたらきを分析した。この人のやったことについては、21世紀人が知らずに生きるわけにはいかないほどのものだ。

 スピノザは宗教と科学を結びつけたともいわれる。彼において、自然は知の対象であると同時に、敬うべき神でもあったからだ。神といっても信仰の対象ではない。敬意の対象である。

 スピノザから教訓を引き出すとすれば、科学者は自然を知ろうとするだけでは不十分だということである。自然に敬意をもたなくては、自然を知ることなどできない。芸術家も同様だ。自然を尊敬せずして芸術などできまい。

 かつて「自然は芸術を模倣する」などと豪語した詩人がいたが、たわけ者である。

(つづく)


<プロフィール>
大嶋 仁
(おおしま・ひとし)
 1948年生まれ、神奈川県鎌倉市出身。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。75年東京大学文学部倫理学科卒。80年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇に立った後、95年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し名誉教授に。

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