2024年04月29日( 月 )

親友の死と手紙(前)

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大さんのシニアリポート第125回

 高齢になれば誰しも「死」を意識せざるを得ない。死にもさまざまな死がある。配偶者、身内、友人との別れなど…。人によって寂寥感や喪失感は千差万別だろう。運営する高齢者の居場所「サロン幸福亭ぐるり」(以下、「ぐるり」)でも、15年間で30人を超す常連が召された。私は「ぐるり」の亭主という立場で接してきた。当事者の家族とは哀しみの温度差があるのはいたし方のないところ。それぞれに与えられた残りの時間を使い切ったという納得感が私の心のなかには存在する。一方で、昨夏急死した親友H.Mの身近な死に対して、あきらめきれない自分がいる。

なぜか憎めないH.Mの振る舞い

イメージ    H.Mとは大学時代に知り合った。豪放磊落な性格で、心配性な私とは性格が違うが、なぜか気が合った。豪放磊落といったが、世間知らず、身勝手という性格も潜む。とにかくH.Mには数え切れないエピソードがある。「エピソードチャンプ」と私は名付けているのだが本人は気づいていないはずだ。そのなかで秀逸なエピソードを紹介してみる。

 H.Mと出会ったとき、私は大学夜間部の職員(学生職員)として、第二法学部研究室の受付をしていた。あるとき、H.Mを教職員食堂へ連れて行った。文字通り教職員専用の食堂で、一般の学生食堂より廉価で食事内容がいい。支払いはすべて伝票にサインする。これをH.Mが悪用した。ときどき学友を誘って、教職員食堂で昼食。食後のコーヒーまで飲んだ。伝票には当然私の名前を書く。翌月の給料日、私は伝票で膨らんだ封筒を手渡され唖然。当時(昭和38年頃)の学生職員の日当は420円。日給月給だから休めばもらえない。1カ月1万円余。これに奨学金3,000円。これでアパート代、食事、交通費を賄っていた。学費の年間5万円はボーナスで支払うことができた。つまり、私は苦学生(現在では死語か)の1人だった。入学金20万円(後で返す)以外、すべて自分で賄った。その私をH.Mは平気で窮地に追い込むような人間だった。

 夜9時になると茶碗を洗い、テーブルなどを拭き掃除して研究室を出る。その直前にMから電話が入る。「おお、大山、しばらくだな」。とんでもない。午前中、教室で一緒だったじゃないか。H.Mは東上線北池袋にある実家から10円玉1枚握りしめて家を出る。高田馬場までは定期乗車券。駅から大学までは往復歩く。昼食は教職員食堂。10円は私の職場に連絡する電話代だ。この「しばらくだな」でH.Mの置かれた状態を認識する。H.Mは高田馬場駅近くの飲み屋「黒岩」に入り込み、勝手に飲み始める。黒岩の合成酒は王冠付き1本50円。茶箱に入れられたジャコは何杯でも無料。私の役割はH.Mのもらい下げだ。幸運にもH.Mが電話したときに私は必ず勤務していた。H.Mは最後まで無銭飲食でブタ箱の世話にはならなかった。

土下座したエド山口

イメージ    とにかくH.Mは常に自分に都合良く判断した。心理学でいうところの仮想的有能感(「いかなる経験も知識も持ち合わせていないにもかかわらず、自分は相手より優秀であると一方的に思いこんでしまう錯覚のこと」(名古屋大学大学院教育発達科学研究科の元教授で心理学者の速水敏彦氏の造語)を持ち合わせていたと私は確信している。H.Mは名にし負う音痴である。誰かが「H.Mの音痴は生きのいい魚を腐らす」と表現した。言い得て妙なのである。本人もいくらか自覚はあるものの、平気で人前で歌う。クラス会でも私の拙いギター伴奏で、大好きな任侠演歌を熱唱する。学友はH.Mの並外れた音痴を期待しているので満場総立ち、大爆笑の渦なのである。

 冷蔵会社の総務部長だったTAに、私とH.Mが六本木のクラブに招待されたことがあった。私もH.Mも高級クラブは初めての体験である。気になることがあった。奥に歌手で俳優のエド山口がいた。彼の歌にホステスの嬌声が響き渡る。緊張するH.Mに、ママさんがカラオケのマイクを差し出した。「おい、行け」と私はH.Mの肩を押した。私にはある目論見があった。そして間もなくとんでもないことが起きる。

 H.Mは舞台に立つと、おもむろにマイクを手にする。イントロが始まる。得意の『唐獅子牡丹』だ。メロディを歌い始めた途端、エド山口のテーブルから驚きの声が上がった。H.Mのこの世のものとは思えない音痴の逆襲である。その場の状況を説明する適当な言葉が見つからない。さしずめ平和な場所に、いきなり爆弾が投下されたとでもいおうか。しかし当のH.Mは今そこで何が起きているのかまったく意に介さない。本人は高倉健になりきっている。雑音は耳に入らないのだ。

 カラオケが終わろうとしたとき、エド山口が動いた。派手な上着を脱ぐと、小さな舞台の前に広げ、歌い終えたH.Mの顔を見ながら土下座したのだ。「お見それいたしました。数々の無礼、お許しください」と口上を切ったのだ。釣られるようにホステスからの拍手とブラボーの嵐。H.Mは悠然とエド山口の上着を踏みしめ、得意顔で着席した。室内に漂う異様な空気感をH.Mが読めるはずもない。ただ、この状態は自分がつくり出したという自覚はあったと思う。だが、それが自分の発する生ものをも腐らせる‘音痴’にあるという自覚はまるでない。こうしてH.Mはいつでも幸せ者だった。H.Mの並外れたエピソードは、『H.Mの冒険』(未発表)と題して書き残している。

(つづく)


<プロフィール>
大山眞人(おおやま まひと)

 1944年山形市生まれ。早大卒。出版社勤務の後、ノンフィクション作家。主な著作に、『S病院老人病棟の仲間たち』『取締役宝くじ部長』(文藝春秋)『老いてこそ2人で生きたい』『夢のある「終の棲家」を作りたい』(大和書房)『退学者ゼロ高校 須郷昌徳の「これが教育たい!」』(河出書房新社)『克って勝つー田村亮子を育てた男』(自由現代社)『取締役総務部長 奈良坂龍平』(讀賣新聞社)『悪徳商法』(文春新書)『団地が死んでいく』(平凡社新書)『騙されたがる人たち』(講談社)『親を棄てる子どもたち 新しい「姥捨山」のかたちを求めて』『「陸軍分列行進曲」とふたつの「君が代」』『瞽女の世界を旅する』(平凡社新書)など。

(第124回・後)
(第125回・後)

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