2024年05月09日( 木 )

集団指導体制へ移行も、まとまらない安倍派の迷走(2)

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 自民党内の最大派閥である安倍派の迷走がとまらない。8月17日の総会で当面、集団指導体制で派閥を運営することを決めた。自民党安倍派はどうなっていくのか。その動向をウォッチングしていく。

派閥分裂の歴史

 「安倍派に内紛はない」。8月27日に大阪府泉佐野市で開催された谷川とむ衆議院議員(安倍派)のパーティーで講演した萩生田光一自民党政調会長はこう発言した。昨年、安倍晋三元首相が亡くなり、後継者をめぐって安倍派内は分裂状態となっている。派閥の引き締めやメディア報道にくぎを刺す意味合いをもつ発言とみられる。

 自民党は、前回(2021年)の衆議院議員選挙で、大阪府内19選挙区のうち15選挙区に候補者を擁立したが、日本維新の会に完敗した。谷川氏の父は大阪府副知事や自民党参議院幹事長などを務めた秀善氏で、現在の安倍派が町村派であった07年、町村信孝氏、中川秀直氏とともに派の代表世話人を務めた。

 安倍派、正式名称で清和政策研究会(以下、清和会)は1979年に福田赳夫元首相らが結成した。政治の世界は離合集散の歴史的経緯を抜きにして語れない。清和会の歴史も吸収と分裂の繰り返しであった。

 84年に中川一郎氏(農林水産大臣などを歴任)が代表を務めた自由革新同友会(中川・石原グループ)が合流した。このとき、石原慎太郎氏や三塚博氏、亀井静香氏、平沼赳夫氏などが参加している。86年に安倍晋太郎氏が派閥を継承、当時派内の実力者の三塚、加藤六月、塩川正十郎、森喜朗の4氏は安倍派四天王と呼ばれた。91年に派閥会長の安倍氏が亡くなると、後継会長の座をめぐって三塚氏と加藤氏が争った(三六戦争)。森氏の支持を得た三塚氏が勝利したが、やがて森系と亀井系との対立が激しくなる。98年に亀井氏らは離脱し亀井グループを発足させた後、「志師会」(現二階派)を結成した。

下村氏の面子を潰した暴露

 紆余曲折を経て、安倍派は8月31日、新会長選出は先送りしたまま、塩谷立・元文部科学大臣を座長に据え、松野博一官房長官や萩生田政調会長、世耕弘成自民党参議院幹事長などのいわゆる5人衆と、稲田朋美元防衛大臣や橋本聖子元五輪担当大臣など9人の現職・元職の大臣経験者の15人で常任幹事会を発足させた。異例の体制といえる。派内には安倍元首相のように大きくなった派閥をまとめ、党内を掌握できる人材はいないためだが、内閣改造・役員人事前にはなんとか形を整える必要があった。そこで派閥オーナーといってよい森氏が水面下で動いた。

 しかし、下村博文元文部科学大臣は幹部会に入っていない。以前から森氏と関係がよくないという。森氏は地元石川県の『北國新聞』連載「総理が語る」(8月7日)で、次のような暴露話を披露した。「(下村は)『何とか私を会長に』と言うんですが、『それは私が決めることじゃない。みんなが決めることだが、君には味方がいないじゃないか。だったら自分はどうあるべきか考えてみたらどうだ』と伝えたんです」。さらに、下村氏が土下座したことまで明らかにした。

 政治家でなくても、ここまでされたらやりすぎと思うだろう。下村氏の面子は丸つぶれである。今は安倍派の混乱期で、森氏が権勢をふるっているが、常任幹事会の面々も同床異夢である。引退した森氏がでしゃばることをよしとはしないはずだ。下村氏もこのままやられっ放しでは終わらず、いずれ反撃を始めるのではないだろうか。

【近藤 将勝】

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