2024年05月27日( 月 )

なぜ不寛容社会になってしまったのか(1)

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不寛容社会の日本 pixabay

 今日日(きょうび)、子どもに“こんにちは、今日も暑いね”と、挨拶がてらこのように声をかけると、即座に不審者扱いされ、行政のLINEサービスで市民へ注意喚起の通達が出回っていく始末。これを現代では「不寛容社会」というらしい。

他者への不寛容

 「森林浴」とは、1982年に行政が提唱した造語である。その核には五感を通じて全身に自然を浸透させるという、太古の神道と仏教の修養がある。これまで人類は、99.9%の時間を自然のなかで過ごしてきた。だから我々の生理機能はまだ自然に適応しているはずだ。日々の生活のなかで、自分のリズムと周囲の環境のリズムが同調するとき、私たちは心地良さを覚える。自然のなかで進化してきた人類は、たとえ自覚がなくても、自然に囲まれているときが最も快適で、心地良さを覚えると考えられている。

 現代人は、都市で金を稼ぐ機械(マシン)に退化し、いまだかつてないほどのスピードで自然とのつながりを失いつつある。これほど自然とのつながりが希薄になって、大丈夫なのだろうか。あまりにも長い時間、室内で座って過ごしている。複数のソーシャルメディアを使っているせいで注意力や思考力が衰え、1人静かに内省する時間も気力もない。私たちを夢中にさせるテクノロジーは、次から次へと新商品を生み出す。脳が他人との交流を負担に感じている可能性はないだろうか。だから私たちは、脳が共鳴できる自然の環境に戻ると、癒しの感覚に魅了されるのかもしれない。

自然こそ「故郷」である
百済寺 © SHori
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(表示4.0 国際)
https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/

 田舎で自然相手の生活をしていると、自分以外のものに対してセンサーを働かせ、関係をつくりながら過ごすことになる。何があろうとも自然にはいちゃもんはつけられない、自分が自然に対して折り合いをつけていく以外にない。そのような自然相手の生活を失ったことが、都市社会のクレーム体質の遠因になっているとは言い過ぎだろうか。相手を見る、相手を知る、相手に合わせるセンサーを働かせて生きる野生の力を使わず、互いが自己都合を主張するだけの世界となり、声の大きさで権利を奪っていく循環ができる。さまざまな場面でそれらを体験する私たちは、それが本当に豊かな暮らしなのかを改めて考えなければならない。

 日々、現実に追われると、自分の生活や利害に直接関係のある部分しか見えなくなる。自分の今いる場所だけが安寧なのだと保身に走りそうになる現代の社会生活は、裏を返せば“他者への不寛容”へ向かっているともいえないだろうか。多様性の時代の不寛容は、多くの軋轢を生むだろう。

封建的な伝統

 日本はこの20年ばかりの間に、随分と「不寛容な社会」になってしまったと感じる。なぜ日本人はこんなに不寛容になってしまったのだろうか。

 自分以外の「誰か」に、「自分の人生が侵されている」と感じる。こうしたストレスフルな空気のなかで、経費の不正利用や不倫など倫理的に明らかに悪いことをしている政治家や芸能人を、ネット上で叩いてスカッとする日本人が増えている。「自分は日々真面目にやってツライ思いをしているのに、あいつらはズルをしている。そんなことは許さない。自分が裁く人間の1人になってやる」──そう多くの日本人が考えているのかもしれない。普段は職場で意見を聞いてもらえないような人でも、世間につながっているような気分を味わえる。同じ活動に没頭する人々と疑似家族を形成し、居場所を見つけることができる。こうした経済不況や時代性の「後押し」も相まって、「他人叩き」をする人たちが増えているのだろうか。

 日本人にとって「ウチ」と「ソト」は日常を支配する概念で、「ソト」の他人に対しては「ウチ」の人間とは異なった扱いをするのが通例だ。日本の会社はかつての農村を中心とした地域社会の再現であり、「ウチ」は自分の所属する村や単位、「ソト」はよその村。手にしているのはスマートフォンで、リビングには4Kテレビが鎮座していても、日本には150年前と変わらない「ウチ」と「ソト」が生きている。表面上はハイテク国家だ、資本主義国家だと言われているが、「ウチ」と「ソト」に縛られた旧態依然とした「封建的社会構造」から離れられていないといえる。

疑似家族的な「場」

 疑似家族の名を借りた前近代的な人間非尊重主義は、日本の家族の在り方、社会保障や働き方の在り方にもつながっている。日本の民法では、親や兄弟を扶養する「扶養義務」が定められているが、“運命共同体なら面倒を看るのが当たり前だ”というのがその理由だろう。これは『「ウチ」の面倒は「ウチ」の構成員で看なさい』という押し付けに他ならない。

 イギリスやスウェーデン、アメリカなどでは、扶養義務があるのは夫婦間や未成年の子どもに対してだけだ。生活能力がない成人の子どもを家から追い出す親も珍しくない。日本だったらとんでもないことだといわれるだろうが、非行の子どもや麻薬中毒の子どもを家から追い出しても「仕方がないことだ」といわれるらしい。たった1人の異質な存在によって親や兄弟の生活が破壊されてしまうのは好ましくないことで、子どもは自分たちとは別の人間だから当然なのだという。生活に困った人の面倒を看るのは、血縁者ではなく役所。これも税金を払っているので当たり前のことと捉えられているし、セーフティネットこそ税金を払う意味なのだ、と。

 イギリスでは、他人は自分とは最初から違う意見をもっているのが当たり前なので、相手を説得し、妥協点を見出さなければ、すべてにおいて進展はないという社会的思考が背景にある。相手を説得できなければ、物事を動かすことはできない。説得できない人は知的に劣るうえに、力がないという評価になってしまうのだ。

日本の国語教育は集団主義的 photo AC

    だからこそ、幼少期から「私の意見はこうです」と表現する技術を徹底的に訓練する。国語の教科書に「そのときの〇〇君の気持ちを答えなさい」といった演習問題が頻繁に掲載される集団主義的な日本と、自分の意見を述べさせる個人主義社会の教育とは、まったく真逆のものだということがわかる。欧米の親は、概して子どもの行動に寛容だ。服を汚しても、靴を濡らしても、部屋を散らかしても、それが「自分でやってみたい」「自分で試してみたい」という自発的な行動であれば「ダメ!」と制限せずに見守る。自由に行動させるだけでなく、小さな成功を見つけて褒めることも忘れない。

 個人主義が浸透している欧米社会では、幼い子どもも「1人の人格者」として扱う。子どもの個性と意思を尊重し、一人前に扱い、「自立心」を育てることが、子育ての最優先事項なのだ。

(つづく)


松岡 秀樹 氏<プロフィール>
松岡 秀樹
(まつおか・ひでき)
インテリアデザイナー/ディレクター
1978年、山口県生まれ。大学の建築学科を卒業後、店舗設計・商品開発・ブランディングを通して商業デザインを学ぶ。大手内装設計施工会社で全国の商業施設の店舗デザインを手がけ、現在は住空間デザインを中心に福岡市で活動中。メインテーマは「教育」「デザイン」「ビジネス」。21年12月には丹青社が主催する「次世代アイデアコンテスト2021」で最優秀賞を受賞した。

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