2024年05月02日( 木 )

イスラエル・パレスチナの分断 今後の中東の安定・平和のために(前)

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日本女子大学文学部教授
臼杵 陽 氏

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 2023年10月7日、世界に衝撃を与えたハマースによるイスラエル襲撃。歴史的な過去の事件の節目となる年に、ユダヤ教の祝日を狙ってテロは決行された。今回の出来事は、ガザの歴史的に複雑な事情と、関わるさまざまな諸勢力の歴史、そして長年にわたって強いられたガザの過酷な現状を考慮しなくては、理解に迫ることはできない。

ユダヤ教の祝日に決行されたテロ

 2023年10月7日、パレスチナのガザに拠点を置くイスラーム主義組織ハマース(マスメディアでは「ハマス」と表記することがほとんどであるが、より原音に近い「ハマース」としたい)が、ガザに隣接する地域に居住するイスラエル市民に対して大規模な攻撃を行った。350名ともいわれる人々が犠牲になり、約250名ともいわれる人質がハマースによって拉致されたと報じられている。ハマースというアラビア語の単語には、肯定的な文脈で使われる「熱狂」といった意味がある。その歴史については後程、詳しく論じる。

 さて、事件が起きた当日は土曜日であり、ユダヤ教ではシャバト(安息日)に当たっていた。ユダヤ教では金曜日の日没から土曜日の日没までが安息日である。敬虔なユダヤ教徒はこの日は神への服従を示すために飲食を一切行わない。7世紀に登場したイスラームもこのようなユダヤ教のやり方を忠実に踏襲したが、休日はユダヤ教と異なり、モスクで集団礼拝を行う金曜日と定めた。

 10月7日はユダヤ教において「律法感謝祭」と呼ばれる祝日でもあったため、ユダヤの人々が集まって大規模なフェスティバルが開催されていた。この律法感謝祭というのは、ユダヤ教徒が1年かけて「モーセ五書」を読み終える日であり、また新たに1年かけて律法を読み始める日でもある。「モーセ五書」とは、ヘブライ語ではトーラー(律法)と呼ばれ、キリスト教の旧約聖書における最初の5つの本である創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を指している。ハマースはこのユダヤ教の祝日に狙いを定めてテロを決行したのである。

狙い定められた節目の年

 ところで、23年という年は、1993年に締結されたオスロ合意(正式名称:「パレスチナ暫定自治に関する原則宣言」)から30周年である。と同時に、イスラエルが建国された48年から75周年という年でもある。しかし、イスラエル建国はパレスチナ人の側から見れば、故郷パレスチナを追放されて難民となった悲劇的な出来事であった。そのため、パレスチナ人自身はこの出来事を「ナクバ(大災害あるいは破局)」と呼んで、世代を超えて民族としてこの悲劇を記憶している。

 さらに、2023年は1973年の第4次中東戦争、つまりこの戦争で引き起こされた「オイル・ショック」から半世紀、すなわち50周年という節目の年でもある。換言すれば、重大な事件が起こった、いろいろな意味で転換点となった記憶すべき年であったのである。

 ハマースはこの象徴的な年に狙いを定めてテロという残虐な犯行を決行したと考えられる。当初はハマースの単独作戦と報じられていた。しかし、その後、他に5つのパレスチナ武装勢力も参加していた事実が判明した。BBCニュースの分析では、複数のパレスチナ武装勢力が20年以降、合同の武装演習を繰り返し、訓練を重ねていたことが明らかになったという。一方、イスラエル側もこの動きを察知していた。しかし、諜報機関モサドはそのような攻撃は計画倒れに終わるだろうと楽観的に判断していたともいわれている。

 そのようなモサドの当初の判断の甘さを覆い隠すかのように、その後イスラエル軍は過剰ともいえるガザ全域への報復爆撃を行っている。このニュースに関しては、新聞・テレビなどの日本のメディアでも連日のように詳しく報じられている。とりわけ、ガザ北部から始まり、最終的にはガザ南部にまでおよんでいるイスラエル軍による激しい空爆によって、ガザ地区からエジプト領のシナイ半島に逃れた難民の数が急増している。

 さらに、ガザとエジプトの境界にあるラファハの町にはガザ北部からの避難民が押し寄せていることを、テレビ画像を通じて我々も連日のように目撃している。ガザへの支援物資の搬入も滞っている。イスラエル軍のガザ攻撃はハマース壊滅まで、これからもまだまだ続きそうである。

ガザの難民の状況

 そもそも、ガザ地区は東西の幅が約6~12kmで、南北の長さは約40km程度の狭い場所で、その総面積は365㎞2にすぎない。日本でいえば種子島ほどの広さであるが、人口は名古屋市とほぼ同じである。言い方を変えれば、ガザは異常な人口過密といっていい状態である。そこにイスラエル軍が激しい攻撃を加えたのであるから、人的被害が甚大になるのは避けられない。

 ガザ地区は、マスメディアの言い方にしたがえば、「天井のない牢獄」と呼ばれている。というのも、分離壁(イスラエル側は「安全壁」と呼ぶ)で囲まれて逃げる場所もないからである。狭い地域に押し込められているため、ガザに住む人には逃げ場所もない。そこにイスラエル軍は事前に通告したといいながらも、激しい空爆をガザ全土に行っているおり、多くの死傷者が出ている。

 ガザ地区の住民には、もともとガザに住んでいた人々と、1948年の第一次中東戦争で難民となって逃げ込んできた人がおり、後者は難民キャンプに住んでいる。ガザは48年から67年の第三次中東戦争まではエジプトに統治下にあったが、その第三次中東戦争でイスラエルがガザを占領した。それ以来、ガザはヨルダン川西岸などの他のパレスチナ人の社会とは切り離されて孤島のような存在となった。ガザの人々の間では貧困が蔓延したが、そんななかでガザの人口だけは確実に増えていったのである。

 ガザ地帯の難民の数に関しては、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA、アンルワ)の2021年の統計によれば、ガザの全人口約190万人のうち、約130万人が難民であるという。この国連機関はパレスチナ難民に対して、食糧、医療、教育といった、人間として生きるために必要な最小限の物質的な援助を半世紀以上にわたって行ってきた実績がある。日本はUNRWAへの拠出額ではアメリカに次ぐことを我々はもっと知る必要があろう。

 同時に、このUNRAWAはパレスチナ人難民に対して雇用を提供する役割もはたしていることを忘れてはならない。ガザでは人口が多い割には就業機会が限られている。高等教育を受けた若者にとってはほかに働く場所がなく、絶好の就業機会がこの国連機関なのである。イスラエルは平時にはガザからの労働者がイスラエル市場で働くことを許可しているが、このような戦争あるいは紛争の状態になるとガザからの労働者の出入りを禁止してしまう。

 ガザ地区には公式には8つのパレスチナ難民キャンプがあり、その代表的なキャンプの人口数を挙げれば次のようになる。すなわち、イスラエル建国直後に設立された南部に位置するラファハ難民キャンプには約12万5,000人、ジャバリヤ難見キャンプには約11万9,000人、ハーン・ユーニス難民キャンプには約8万7,000人、北部のシャーティー(「海岸」という意味)難民キャンプには約8万5,000人である。このような数字に表れているように、難民キャンプ自体が、日本の地方都市並の人口規模をもっている。パレスチナ人はそんな難民キャンプにすし詰め状態で暮らしている。

(つづく)


<プロフィール>
臼杵 陽
(うすき・あきら)
臼杵陽1956年生まれ。80年東京外国語大学アラビア語学科卒業、88年東京大学大学院国際関係論博士課程単位取得退学。専門は国際関係論・中東地域研究。外務省在ヨルダン日本大使館専門調査員、佐賀大学助教授、エルサレム・ヘブライ大学トルーマン平和研究所客員研究員、国立民族学博物館教授を経て、2005年より日本女子大学文学部史学科教授。京都大学博士(地域研究)。著書に『世界史の中のパレスチナ問題』(講談社、2013年)、『「ユダヤ」の世界史:一神教の誕生から民族国家の建設まで』(作品社、20年)など。

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