2024年04月30日( 火 )

経済小説『落日』(16)理不尽

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谺 丈二 著

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「今度、顧問としてお出でいただく井坂さんです。私から無理にお願いして西日本総合銀行の取締役からお出でいただきました。以前から存じ上げていたのですが、大変に優秀な方で頭取に無理に派遣をお願いしました。次の株主総会で取締役に就任していただきます」

 5階建ての朱雀屋本社の2階にある役員会議室の大型の円卓に7人の役員が丸く座っていた。そのほとんどが、井坂を紹介する朱雀の言葉を聞くともなしに聞いていた。

 過去、西総銀が役員として朱雀屋に派遣した人間は少なくなかった。なかには専務に就任した人間もいたが、例外なく、すぐに朱雀に圧倒され、瞬く間にイエスマンになり下がった。そんな過去を朱雀屋の役員はよく知っていた。

 業績不振のなかで支店長OBではなく、現役取締役ということが多少気にはなったものの、小柄で一見風采の上がらない井坂を、朱雀屋の役員たちは過去の人間と同列に置いた。加えて、銀行役員といっても朱雀屋に赴く直前に取締役になったというのも井坂を軽く見た理由だった。

 井坂を紹介する朱雀の言葉が終わったときの少なめの拍手がそれを物語っていた。ただ今回の事情を知っている牧下だけが、場違いのような大きな拍手をした。

 井坂を迎えた朱雀の心は揺れていた。朱雀が銀行から呼び出しを受けたのは半年ほど前だった。

「朱雀さん、当行としてはこれ以上の支援は難しいですな。今まで何度となく改善をお願いし、そのたびに改善計画をいただきましたが、一向に先が見えませんな」

 加藤はそのとき、不機嫌そうにそう切り出した。

「計画予算は言うなれば経営者のコミットメントです。予実がこれほどかい離したのではまるで話になりませんな。いうなれば詐欺も同然ですよ」

 そう言いながら加藤は同席している杉本の方を見た。杉本がうつむき加減に大きくうなずいた。

「御社の計画はいつも希望的観測の域を出ません。朱雀さん、業界にもう神風は吹かないのですよ。当行としては支援の限界です。経営は道楽ではありませんからねえ」

「今度こそ全力を尽くしますので何とかお願いします」

 詐欺、道楽といった屈辱的な言葉に耐え、朱雀は必死の思いで追加の融資を懇願した。

「そうはいきませんよ。仏の顔も三度までということです。銀行というのはあなた方の10分の1程度の利幅で飯を食っているんです。加えて預金者や株主に対する責任もありますからな」

 加藤の言葉は冷え切っていた。

「ま、そうは言ってもメインのうちが軽々しく逃げるわけにもいかないでしょうから」

 口をすぼめて目を閉じた朱雀に杉本が小声でささやいたのは重苦しい沈黙がしばらく過ぎてからだった。

「ありがとうございます」

 朱雀は思わず細い眼を大きくして加藤と杉本を交互に見て言った。

「ただし融資には条件があります」

 場所を頭取室から専務応接室に移しての話のなかで、杉本がいきなり切り出したのは朱雀が予想もしていないことだった。

「まず、経営支援要請書を書いてください。ついでに人材派遣要請書もお願いします」

 いきなりの申し出に呆気にとられる朱雀に構うことなく杉本は続けた。

「それとあなた名義の株をすべて私どもに預けてください。もちろん、ご親族の分は結構です。一応、担保というかたちこそとらせていただきますが、経営が軌道に乗るまでの一時的な措置です。先が見えればその時点でお返しします」

 前もって用意させておいた複数枚の書類に目を落としながら杉本が言った。淡々とした口調だったが、その声には有無を言わせぬ響きがあった。

 朱雀にとってまさにポツダム宣言も同然の条件提示だった。突然株を全部よこせと言われて朱雀はわが耳を疑った。時価千数百円の500万株である。朱雀にとって自分名義の株全部を差し出すのは、わが子を人質に出すようなものだった。

 いくら株式公開した以上、企業は個人のものではなくなると言っても、朱雀は創業者だった。間口二間の小間物屋を一部上場の企業にするまでには、それなりの辛酸もなめている。融資と引き換えに、経営も株もよこせというのは朱雀にとっては理不尽だった。上場企業の社長に個人保証を要求するというのも尋常ではない。重い怒りの目で朱雀剛三は杉本を見た。

「朱雀さん、今度御社に赴く井坂は当行の取締役です。今までの支店長クラスではありません」

 朱雀の思いを知ってか知らずか、そういうと杉本は運ばれた緑茶を朱雀に勧めながら、その手を湯呑に伸ばした。

「私どもとしてはあなたを徹底的に支援したいということです。言い換えれば、より親身になって経営にアドバイスさせていただくということですよ。株の件は朱雀社長の誠意ということで、頭取を説得する大きな材料にもなりますから・・・」

 口にした湯呑を茶卓に戻しながら、朱雀の気持ちを見透かしたように杉本が鈍い笑顔を浮かべて、猫なで声で言った。

「わかりました。こうなったのもすべて私の経営の結果です。条件はすべて呑みます」

 仕方がないと朱雀は思った。杉本が口にした頭取を説得するためという言葉は条件のすべてが加藤の指示であることを物語っている。

「社長、官庁と銀行は何かをさせるためというより、させないように機能するのが普通ですからねえ。加えて、信用するより疑うのが彼らのプライオリティーです。あなたの言うやる気と楽観的な明日だけでは彼らには通用しませんよ」

 井坂を紹介した臨時役員会の終了を告げた後、朱雀はいつか専務の1人で息子でもある一茂がひとり言のようにつぶやいた言葉を反芻しながら、子飼い役員たち1人ひとりの顔を見た。

 朱雀にとっては皆、わが子同然の人間たちだった。企業の成長のなかで朱雀は彼らを精鋭に育てたつもりだった。
「しかし・・」と朱雀は思った。いま、自分の眼に映る役員たちは、それぞれにおとなしく頼りなげに見えた。

 井坂も最後まで円卓に座って、すべての役員が出ていくのを見送った。

 7人の役員に続いて最後に役員室を出る朱雀の背中を見ながら、井坂は杉本から朱雀を紹介された5年前の夏を思い出した。この日とは対照的な暑い夏の昼時だった。汗を拭きながらうまそうにビールを飲み干すその姿を井坂は鮮明に覚えている。あのときはまさかこうして、自分が朱雀の後を襲うなどということは夢にも考えなかった。その思いは朱雀にしても同じに違いない。井坂は1人残された会議室のなかで運命の不思議を思った。

(つづく)

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