2024年10月15日( 火 )

30周年を迎え、また超えて(2)APAMAN大村氏とわらび座

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盛岡旅行で存在を知る

劇団わらび座「わらび劇場」(秋田県仙北市田沢湖)  わらび座の存在を知ったのは12年ごろだっただろうか。“経営同志”の妻・悦子と盛岡を起点に車でめぐっていたところ、秋田県仙北市田沢湖にある劇団わらび座の「わらび劇場」を目にしたのである。この劇場の歴史については、それなりに頭のなかで整理しており、戦後、東京から移ってきて地方からの「芸術起こし」という文化活動の先端を担った劇団であることは知っていた。

 このとき、わらび座の劇場で演劇を鑑賞したことで「福岡でも興行しよう」という使命感がメラメラとわいてきた。「ブッダ」(17年12月)、「北前ザンブリコ」(19年3月)、「ジパング青春記」(20年1月)、「北斎マンガ」(21年6月)、「いつだって青空」(22年12月)と延べ5回、当社主催の公演をアクロス福岡にて行った。観客の方々の大半が非常に感動した様子で帰途につく光景を幾度となく目撃し、こちらも興奮した(毎回1,000人前後の観客が集まった)。

コロナ禍で存続の危機

 福岡を例に挙げると、コロナ禍のため博多座においても興行を行うことが困難となってきた。20年3月、当時のわらび座社長・山川龍巳氏から「コロナ襲来は芝居活動を封殺させる悪魔のようなものです。根本的な対策が必要です」という相談を受けた。こちらも「誰に相談すれば解決できるか?」について真剣に模索し、「中央、東京でネットワークをもっている経済人の関与が不可欠である」という結論に至った。

 20年5月、山川社長とAPAMAN社長・大村浩次氏との面談が実現した。大村社長も我々夫婦と同様、秋田県を旅行中、わらび座の「わらび劇場」を偶然目にしていた。そこで演劇を鑑賞したところ、大変興奮して早速ファンになった経緯があったそうだ。

 筆者は、大村社長のこの体験に関しては知らなかったが、かなり前に会社として2回、わらび座の興行を行っていたという。大村社長が「よし!わらび座の経営アドバイザーを引き受けましょう」と快諾してくれたことに山川社長は一瞬あっけにとられた様子だったが、少し間を置き、深々とお辞儀し、「ありがとうございます」と感謝の言葉を述べていた。

 

民事再生法申請

 大村社長も山川社長も筆者も「わらび座単独での経営は難しい」と読み、「再建策が必要である」ことは共通認識としてもっていた。「コロナの嵐」がますます吹き荒れるなか、わらび座は21年10月22日、秋田地裁に民事再生法の適用を申請し、11月2日付けで民事再生手続開始決定を受けた。負債総額は約14億4,600万円であった。事業は同年9月に設立した「(一社)わらび座」へ移管されることが決まった。民事再生に当たってはAPAMANグループのコンピューター関連企業「システムソフト」(東京)が支援スポンサーとなった。

 当社もこの3年間、再生資金のカンパを行ってきて、支援が完了するところまで漕ぎつけられた(再生のメドがついた)。大村社長のすべてにおける「目配り・段取り・かじ取り」のリーダーシップには感服する次第である。

役者・スタッフの芝居に賭ける「熱情・執念」

 わらび座はもともと、観客動員実績で全国3位を記録してきた。もちろん、ミュージカル興行における動員である。民事再生法の適用を申請した矢先には、先行きに不安を感じた役者の離職があった。しかし、ここに至ってOBたちの復活が目立ち始めた。「私には舞台で芝居をするしか生きる道はない」と涙ながらに訴えるそうだ。我々、支援者側は「役者の皆さんが世間並の収入を得られるように支援することが使命である」ことを痛感している。

 来春、3月13日、アクロス福岡にて第6弾の興行を行う予定にしている。我々としては、福岡のファンが「わらび座再生」を強く認識してくれることを期待する。となれば、こちらも興行する意義がはっきりしてくる。わらび座の関係者たちは、必ず福岡のファンの期待に応えてくれるはずである。

 APAMAN・大村社長については、これまで何度も記事化しており、ここでは省略する。筆者にとって、非常に強い刺激を与えてくれた経営者の1人であることは間違いない。必ずお礼をするつもりである。

(つづく)

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