30周年を迎え、また超えて(26)ついに立つ(3)94年8月末で退社
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舛田社長の思い出
事業を起こしたときの家主・舛田社長との思い出をつづろう!知り合ったのは1977年秋のこと。舛田氏と同じ熊本出身の日本ハウス・増村社長からの紹介であった。舛田氏を一口で言い表すと(1)「本当に仕事一筋の人」、(2)「不動産を仕込んで企画することしか関心、趣味をもっていなかった人」であった。そのため、舛田氏は中洲で飲み歩くなどといった無駄使いをすることはなかった。
もう少し思い出を絞っていこう。舛田氏は一度、会社を清算した。99年あたりから5年間は、再開した事務所にビジネスに関する件でお客さんが訪問することは皆無であったという。閑散とする事務所のなかで、「もう、これで俺も終わったのであろうか?」と虚無感に押しつぶされそうな心境に陥ったとたびたび、漏らしていた。ところが辛抱していれば、運も転がってくる。時は21世紀、2005年に銀行マンが突然、事務所に飛び込んできたのである。
その後、2~3回訪問があり、博多駅南の賃貸マンション企画の情報と融資承諾の話がきた。3年後、リーマン・ショックが襲ったが、年2棟の不動産開発ペースは維持できた。まぁ、旧債の返済から解放されていたから大儲けは無理であっただろうが、どうにか帳尻は合っていたようである。会うときはいつもにこやかだった舛田氏の顔が忘れられない。本当に憎めない人柄であった。平成バブルで行き詰まった後、一時的だとしても、再建したケースは稀であった。
残念だったのは再建のメドをつけたときは、すでに高齢だったということだ。21年に故人となった舛田氏だが、実子は父の偉大さを知らず家族葬を強行した。「アンタはオヤジが皆さんから親しみを抱かれていたことを知らないのか!皆さんが心底、お別れ会に参列したかったことを知らないのか!」と叱責したが、実子は本当に無頓着な表情をしていた。これでは故人が浮かばれない。
100人以上の不動産業の経営者とつき合いがあったが、これだけ親近感を抱いた経営者は他にいなかった。
「経営者の同志」としての我が妻・悦子
このシリーズを読んでくれている事業経営者および独立を計画している方々が一番、頭を痛めた、あるいは痛めることは「独立する」ことを打ち明ける時期であろう。「我が妻は承諾してくれるかな」と悶々とした夜を幾度となく過ごしたであろうと推察する。しかし、筆者の場合、そういう苦労がまったく無かった。8月の辞表提出前から「独立計画」に関しては事前に通知を行っていた。返事はただ一言!「この機会を待っていたの!50歳以降の人生はビジネスをやりたい」という頼もしい発言である。悦子50歳(8月が誕生月)、筆者47歳の手前で事業を起こしたことになる。
スカウトに飛ぶ
局面が変わった。8月の盆休み前のことである。「スナオさん!8月の盆休みに中学校の同窓会(鹿児島)に行ってくるわ。前から話をしていた中尾さんを説得してくるよ」と一方的に告げられた。中尾氏は中学校の同級生で、旭化成に入社後、延岡、東京と転勤して当時は、延岡に戻ってきていた。子会社・スーパーの常務をしているとのこと。「貴方の会社構想を聞きながら不安を1点抱いているの!企業調査、営業、編集の担当の方々は貴方の采配の下で動いていけるでしょう。しかし、私が一番、懸念していることは経営マネジャーがいないことです」と的確な指摘をしてくれた。反論の余地がまったくない。同感であった。今、振り返ってみても我々は夫婦の前に「経営者の同志」という間柄だったのだ。
鹿児島に1泊して悦子は帰宅した。第一報をしてきた時、非常に興奮している顔つきであった。「スナオさん!まず9月になったら延岡に飛びましょう!」と“攻めて”くるのである。「中尾さんね、予想した通り、仕事に飽きたらなくなっているのよ!私の提案に目の色を変えたわ。新会社づくりにタッチできることは非常に光栄だと喜んでいたのよ」と語っていた。
早速、延岡へ急行する
30年前、延岡に直行するための道のりは、九州縦貫高速道路で熊本まで走り、そこから一路東へ、阿蘇山を横切り、高千穂経由、延岡コースが主流であったと思う。
確か9月第1週の土曜日であった。延岡へ向かって車を走らせた。旭化成には筆者の親戚がおり、縁が深い。兄弟甥姪までの親戚5人がお世話になっている。次女に当たる姉は職場結婚した。その連れ添いである義兄はよく勉強していた。経営マネジャーとしての能力を高めて子会社の社長にまで昇りつめた。中尾さんも同コースで鍛えられてきたのであろう。第一印象で「仕事のできる人、仕事の好きな人」と確信した
「短刀直入に申し上げます。会社設立にあたっての弱点は経営を理解できる人材がいないことです。ぜひ、中尾さんの経営マネジャーとしての能力を活用していただけないでしょうか!」と懇願した。中尾氏の方も「よろしくお願いします」と即答された。「テンポが早い。俺と気性が合いそうである」という結論を下した。「大手は50歳をピークにして『閑職』へと送り出す。腕に覚えがある人で、やる気に燃えている人材は第2のビジネス人生選択への思いを抱いているのだな」と認識した。
中尾氏は12月初めにはとりあえず単身で福岡に赴任してきた。ポストは専務と指定した。彼は企業運営ルールの作成に始まり、経営マネジャーの担当部類の取り決めごとを2晩で完成させた。仕事が速い。彼が蓄積した専門知識をフル活用できたことが「30周年にたどり着けた」最大の要因であろう。同時に中尾専務をスカウトした最大の功労者は経営同志・悦子であった。
(つづく)
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