2024年12月11日( 水 )

30周年を迎えまた超えて(30)30周年祝賀会「おかげさまで」(2)

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「博多の包容力」に感謝

 30周年祝賀会を迎え、50年(半世紀)にわたり一貫して情報発信業を続行できたのは、ひとえに「福岡・博多の歴史的風土」のおかげである。大まかに言えば、(1)まずはおおらか、人様・よそ者を温かく包み込んでくれる、(2)適度に大都市である、(3)他方で、田舎の一面もある、ということだ。

 (1)については、田舎から福岡・博多で一旗揚げようという野心をもつ人々が福岡県の内外から数多く集まった。1975年までに事業を起こした方々の経歴を調べると大半が「よそ者」であった。特筆すべきは、鹿児島県出身の事業家が多いことだ。親戚を頼って来福して10年かけて事業を起こすケースが目立っていた。特に建設業界には鹿児島県出身者が多い。一方、我が故郷・宮崎県出身者は比較できないほど少ない。

 筆者は福岡での人脈が皆無であった。宮崎県出身で、学歴・出身校などは全く役に立たなかった。だが、修猷館高校の同期の喧嘩を仲裁したりもした。3件ほどこのような仲裁を行ったところ、「コダマさんは地元の極みで顔が広い」という「地ゴロ」認定を受ける。連れ添い・悦子は鹿児島市出身。「スナオさん!鹿児島はよそ者に対して福岡ほど寛大な風土ではないよ。福岡にきてよかったね」と度々、福岡への感謝の言葉を述べていた。

大都市、国際都市へと変貌

福岡市 イメージ    (2)の「適度に大都市である」については、仮に東京、大阪で「事業起こし」に挑戦していたならば、満足できる結果を得るのは難しかったであろう。あまりに市場が大きすぎて「情報発信業」で異彩を放つことが難しかったからだ。一方、鹿児島、宮崎という故郷で起業したとしても、零細な規模でしか経営できなかったであろう。いくら人脈・伝手があったとしても、市場性が乏しいという根本的な弱点がある以上、事業規模の拡大が無理ということは自明の理である。

 「適度に大都市」という利点があったとしても、成長の余地がなければ話にならない。その点、筆者は恵まれていた。75年2月に企業調査マンとしてのスタートを切った。その年の3月に新幹線が博多まで延伸された。ここから博多・福岡の「現代版発展」が始まったのである。その後の博多・福岡の成長は止まらない。国際空港として福岡空港の利用者(外国人)が急増、国際都市として急ピッチでインフラ整備が行われたのである。博多・福岡が短期間で都市へと飛躍したという時代背景があったからこそ、筆者は運に恵まれていたと言えるのではないだろうか。

 (3)の「大都市であるが適度に田舎である」。この“テーゼ”が最も筆者を後押しした。どのビジネスでも人間関係でも「知っているか、知っていないか」で力の差が大きくなるのは必然である。筆者は情報収集・情報トラブルなど様々な経験をしてきた。結果、どの案件においてもキーマンに辿り着くネットワークが存在する。それは福岡がよい意味で田舎だからだ。

席上で30年ぶりの「再会ラッシュ」

    筆者のこれまでの生き様を通じて知己を得た方々が11月7日の式典にきてくれた。30年ぶりの再会を果たし、驚きの連続だった。「我がデータ・マックス『30周年祝賀会』というだけでなく、30周年に辿り着くまでの活動において、各方面の方々と知り合った。その周辺の人たちも目的をもって付き合いをされていたのであろう。局面の変化で疎遠になってしまったが、11月7日に再会できた」と感慨深いものがあった。

山崎広太郎氏の関係者を呼ぶ

 山崎広太郎氏が福岡市長だった時代にその秘書を務め、日本新党の国会議員時代においても広太郎氏を支えた吉村慎一氏が、『コミュニティの自律経営 広太郎さんとジェットコースター人生』というタイトルの著書を3カ月前に発刊された。その際、販促のために多少の協力を行った。筆者も吉村氏と再会できたのは20年ぶりだろうか。「30周年のご縁で、山崎氏に縁がある方を呼ばないといけない」と判断して招待状を送り、出席していただいたのである。席は広太郎氏を応援していた経営者の隣にした。ワインを味わいながら昔話に花を咲かせたことだろう。だが、その昔話の中身が本題ではない。

 生前、広太郎氏が本を出版されたので、弊社でも10冊読者プレゼントを行った。だが、残念ながら2冊しか応募がなかった。この事実を本人に伝えたところ、「そうか…」と寂しげな表情を浮かべていたのが忘れられない。広太郎氏は福岡市長を2期務めたが、その間、取材に対してご配慮をいただき感謝している。広太郎氏が市長退任後に所属された「福岡博多東ライオンズクラブ」は筆者の所属クラブと兄弟クラブである。最大の思い出は、インドネシアのマングローブ植林・再生に一緒に行ったことである。

9日(土)、驚きの電話あり

 この原稿を仕上げていた9日(土)、7日の祝賀会に参加されていた女性経営者から突然、携帯に電話がかかってきた。「いやぁ、ありがとう!30年ぶりに若者たちと会えて嬉しかった。彼らも50歳前後になっているね。しっかりと風格を漂わせていたから安心した」と、興奮気味で話をしてくるのである。彼女は広太郎氏が福岡県知事選挙および衆議院選挙(日本新党公認候補)に出馬した際、全身全霊で応援された方だ。

 「当時、20歳前後で使い走りだった周船寺(仮称)君が、いまは県会議員になっている。本当に貫禄があるね。30年ぶりの再会だと思う」。さらに話は続く。「周船寺君の横にどこかで見たような顔をした同年代の方がいたから『どなたですか』と尋ねたの。そうしたら神崎(仮称)です。と返事をしてくれたのよ」とおしゃべりが止まらない。要約すると、この神崎氏のオヤジさんが広太郎氏の熱烈な支援者であったという(神崎氏は2代目として会社を継いでいる)。「その2代目が御社の祝賀会に参加したのね。生前、神崎のオヤジさんにお世話になったお礼を伝えた。ありがとう」。

 今回、紹介したのは一例である。色々な仕掛けをして人様を集めれば、こちらの思惑を超えたドラマが生まれるのである。こうした企画は、これまでも数え切れないほど行ってきた。

(つづく)

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