アジア・インスティチュート理事長
エマニュエル・パストリッチ 氏

日本はいまこそ「オペレーション・アインシュタイン」を実施すべきだ。アメリカで起きている科学と教育に対する劇的な変化は、日本にとってチャンスである。
日本人は、アメリカの教育と研究の分野で現在起こっている大きな変化とその歴史的意味を理解するのが遅れている。それはトランプ政権によるハーバード大学への攻撃と、連邦政府における基礎科学への資金支援の見直しや、科学、社会科学、人文科学の研究が前例のない脅威にさらされていることである。多くのアメリカの知識人は、この問題を深刻に受け止めている。
トランプ政権が行っている科学と教育に対する攻撃の具体例を挙げると教育省の公務員を解雇し、その廃止計画を進めていることだ。連邦政府から海洋学、気候学、農業の専門家を大量解雇、政治目的のための研究予算を差し控えるなどの急激な政策転換は近い将来、アメリカ、そして世界に壊滅的な打撃を与えるだろう。 このままでは、アメリカの大学、政府研究機関、さらには企業からの人材流出は避けられない。
しかし、あらゆる危機はチャンスでもある。もし日本政府が日本における先端科学研究の発展、つまり世界トップクラスの教育・研究、芸術やその他の活動における専門家の支援を促進するための、長期的かつ強固な政策を策定し、人材の受け皿となるなら、日本の将来の発展にとって歴史的な機会となるだろう。
日本は、科学技術における長期的な政策の立案、実施能力において、先進国、とくにG7のメンバーのなかでもユニークな存在である。また、自然科学分野では世界有数の高度な研究インフラを有し、政治色を排した奨学金制度も充実している。
日本の研究環境を長期的に発展させることは非常に重要である。同時に日本が目の前にあるチャンスをつかむためには、今すぐ動くことが必要だ。メキシコの作家であるカルロス・フエンテスが言ったように、「何も起こらない年があれば、何世紀にもわたって起こる年がある」のだ。
また、この危機がアメリカの枠をはるかに超え、イスラエルはもちろん、フランス、ドイツ、イギリス、イタリア、その他のヨーロッパ諸国にも影響をおよぼしているということを日本人が理解することも重要である。
欧米の方が進んでいると思いがちな日本人にはなかなかピンとこないかもしれないが、地政学的な状況が急速に変化している現在、日本が最高の学術・研究環境を提供している。このことは、アメリカ人学者である私が迷うことなく断言できる。
日本には安定した政治環境があり、政府は機能しており、責任感と教養のある公務員によって運営されている。政府や政治の要職には、専門的な知識をもった合理的なプレーヤーがおり、その政治的な姿勢も極端なものではない。
アメリカでは重大な決定を下す数多くの政治家が、気候変動や進化論に対して公然と疑問を呈している。一方、日本の政治家の大半は、学問や科学を尊重している。
日本は国民の識字率が高く、ほとんどの国民が欧米をはるかにしのぐ科学と数学の基礎教育を受けている。つまり、日本の教授職だけでなく、ほとんどのレベルの労働者が数学と科学の基礎教育を受けているのである。日本はアメリカが半導体の開発・製造に携わる有能な人材を探す際に直面した苦労をすることなく、有能な人材を見つけることができるのである。
最近の危機の加速
アメリカの世界的な知識人、科学者、政策立案者、芸術家、実業家たちは、母国を離れて海外に移住する用意ができている。彼らは現在アメリカで起きている大惨事を目の当たりにして、急速に考えを変えている。 4月25日にイェール大学から哲学者のジェイソン・スタンリー、歴史学者のティモシー・スナイダー、マーシ・ショアの3人の教授がカナダのトロント大学への移籍を決めたことは、その一例である。
トランプ政権は4月12日、ハーバード大学に宣戦布告。連邦政府が同大学の中東とその他の研究を厳しく監視したり、教授と学生の発言を制限したりすることなど、連邦政府が大学の経営に干渉するといった前例がないような要求をした。これに対し、大学側は即座にその要求を拒否。このため連邦政府は研究予算を凍結し、ハーバード大学の非営利団体としての地位を剥奪すること、同大学の外国人学生や教員のビザを許可しない、などの強い圧力をかけた。これには全米の大学に衝撃が走った。
4月28日、ハーバード大学化学・生物化学部のチャールズ・リーバー元学部長が中国の清華大学深圳国際大学院(SIGS)に加わった。リーバーは、中国政府から多額の助成金を受け取ったということで起訴され、2021年に有罪判決を受けている。なお、逮捕後にノーベル賞受賞者7人を含む数十人の科学者が、リーバー氏の容疑の根拠は薄弱であるとしてリーバー氏を支持する公開書簡を発表している。
同日、全米科学財団(NSF)に「追って通知があるまで、すべての資金提供を停止する」という命令が出された。つまり、政府財団からの研究に対する資金援助がすべて打ち切られるということだ。全米科学財団は、世界でも有数の基礎研究支援機関である。要するに、アメリカ政府は科学研究を打ち切ろうとしているのだ。
ヨーロッパは、反科学的になりつつあるアメリカの環境から逃れたいと願うアメリカの専門家たちに “学術亡命”を斡旋し、彼らを受け入れる努力を始めた。欧州研究会議(European Research Council)は、EUに移住する研究者に対して提供する資金を倍増させた。この資金により、大学がアメリカの研究者に対するビザを迅速に取得できるようになり、一流の学者を惹きつける多額の移転手当を提供できるようになる。
カナダやヨーロッパはアメリカ人研究者に、アメリカと類似した環境や文化を提供でき、英語の使用も一般的である。
そもそも、今日のアメリカに見られる政治的過激主義、反知性主義、白人至上主義、長期的ビジョンの欠如は、ヨーロッパ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ドイツ、フランス、イスラエルでも現れている。 実際、イスラエルでは学問の自由への干渉が起きており、多くの点で、アメリカ以上にひどいといえる。
対照的に、日本は犯罪率が低く、勤勉で優れた習慣を持つ労働力があり、倫理的行動の伝統が強い。また、学者の個人的な発言に対して政府と大学はさほど敏感ではない。
さらに、韓国、中国、台湾を加えた東アジア全体が世界の科学と教育の主要拠点へと急速に進化している。日本はアジアにあり、アジアは科学技術の中心地として、世界経済の中心地として、そして文明そのものの中心地として、浮き沈みの激しい時代にもかかわらず、台頭しつつある。活況を呈するアジアの経済や教育の中心地に近い日本の魅力は、ヨーロッパにはないものだ。
韓国や中国は活発で革新的だが、日本には歴史がある。また、文化の連続性を重視し、人文科学や芸術を驚くほど尊重している。
さらに、日本はG7のなかで唯一のアジア国家として、優秀な人材を採用できるユニークな立場にあり、アメリカ人やヨーロッパ人は日本文化に魅力を感じている。
これらすべての要因から、日本は研究・教育において比類なき環境であり、すでに100年以上前から基礎科学の研究生態において強固な基盤がある。世界で最も安定し、社会的に一体感のある国の1つとして、日本の社会基盤は強固である。
オペレーション・アインシュタイン
1920年代、アメリカは科学や人文・社会科学の研究の中心地ではなかったことを忘れてはならない。ハーバード大学、イェール大学、プリンストン大学は、その当時、堅実な学校ではあったが、ヨーロッパの学校のような先端の学問が欠けており、戦後になってようやく卓越した伝統を身につけたのである。
アルベルト・アインシュタイン、ハンス・ベーテ、ジョン・フォン・ノイマン、レオ・シラード、ジェイムス・フランク、エドワード・テラー、ルドルフ・パイエルス、クラウス・フックスといった科学者たちは、アメリカを科学研究のリーダーにする責任を負い、技術や産業においてアメリカに優位性を与え、複数の分野で世界のリーダーにした。こうしたヨーロッパの専門家を採用することの重要性は、いくら強調してもし過ぎることはない。
トーマス・マンのような作家、マックス・エルンストのような芸術家、その他多くの技術専門家が、30年代から40年代にかけて不安定なヨーロッパからアメリカに渡り、そこでアメリカ人にインスピレーションと刺激を与えた。
その過程はまったくの偶然ではなかった。ロックフェラー財団は33年に「脱退学者のための特別研究援助基金」を設立し、ヨーロッパの学者がビザを取得できるようにし、アメリカの大学で新たに創設された教職の給与を供与。40年までに214人の学者がアメリカに渡った。その後、ロックフェラー財団は「ヨーロッパ人学者のための緊急プログラム」を立ち上げ、より困難な状況下でさらに多くの学者を招聘した。その結果、12人のノーベル賞受賞者が招かれた。
現在、アメリカでは研究・教育に対する政府支援の急速な低下、信条を理由にした知識人に対する政治的キャンペーン、現代アメリカにおけるキリスト教ナショナリズムと白人至上主義が広がっている。
もし日本が優秀な人材を招聘し、彼らを日本の大学、研究機関、企業、さらには政府に効果的かつタイムリーに統合するプログラムを立ち上げることができれば、かつてなかった機会を提供することになる。
「アインシュタイン作戦」の具体的な手順
現在のアメリカ、そして欧州やイスラエルの危機は、30年代から40年代の欧州の政治的不安定とまったく同一ではない。しかし、日本が一流の科学者、知識人、芸術家を日本に招聘するためのプログラムを迅速かつ効果的に立ち上げることができれば、多大な利益を得ることができる。また、高齢化が日本にもたらす課題を文化的・科学的ルネッサンスの機会に変えることができるかもしれない。
大切なのは、日本の指導者たちが、この目的のために政府、学術機関、産業界、その他市民社会の力を結集できるようなビジョンを推進することである。日本のオピニオン・リーダーは、外国の専門家を採用することの重要性を意思決定者に納得させる必要がある。
政治家は、各分野の第一人者がアメリカから日本に来れば、彼らは日本の専門家を育て、資金だけでなく国際的なネットワークももたらすことを知る必要がある。そのような専門家たちは、アジア全体、そして世界を含む科学的・学術的協力のための新しいネットワークの中心に日本を据えるだろう。
まずは日本が一流の教授や研究者、知識人や作家、政策や文化のリーダーなど、日本に招聘できる人物のリストを作成することだ。
東京大学は、国際的な専門家を採用するためのプラットフォームとなり得る「UTokyo College of Design」(デザイン学部)の計画を発表した。しかし、大学によるその努力だけでは十分ではないし、焦点も定まっていない。
ロックフェラー財団が創設したようなプログラムであれば、教授や研究者、政策や文化の第一人者に日本を訪問してもらう。そこで、日本に拠点を置く具体的な計画について話し合えば、その後、日本移住が実現するだろう。
日本政府は、これらの専門家が日本について学び、日本で資金や研究パートナーを見つけ、永住権や市民権を取得し、日本語を学び、日本での知的、科学的、文化的活動を支援する理想的な環境を整える機会を提供しなければならない。
日本の政策立案者や日本の大学教授たちに、海外から専門家を招くことの重要性を納得させる必要がある。それは、平和と自由に対する日本独自の文化的貢献についてのビジョンを推進し、新しい国際的専門家がもたらす日本の将来の発展計画を明確にすることによってのみ可能である。
海外の専門家たちを日本に呼び寄せ、日本文化に適応させ、日本語を習得させ、日本人と緊密なネットワークを素早く形成させるといった問題は、歴史の重要な局面において日本に専門家を呼び寄せるうえで決定的な意味をもつかもしれない。
最後に一流の専門家の日本への招聘は、主に給与や研究予算が問題なのではない。ほとんどの学者は、給料を上げたいから日本に来るのではなく、学問の自由と健全でダイナミックな文明環境を切望しているのである。このようなプロジェクトを成功させるためには、日本の科学と学術の未来がどうあるべきかについての明確なビジョンを示す必要がある。アメリカやその他の国から優秀な人材を採用するための日本の「アインシュタイン作戦」は、何よりも倫理観と価値観、文化と人間性の尊重、そして日本とその強力な文明についてのものであるべきだ。
<プロフィール>
エマニュエル・パストリッチ。1964年生まれ。アメリカ合衆国テネシー州ナッシュビル出身。イェール大学卒業、東京大学大学院修士課程修了(比較文学比較文化専攻)、ハーバード大学博士。イリノイ大学、ジョージワシントン大学、韓国・慶熙大学などで勤務。韓国で2007年にアジア・インスティチュートを創立(現・理事長)。20年の米大統領に無所属での立候補を宣言したほか、24年の選挙でも緑の党から立候補を試みた。23年に活動の拠点を東京に移し、アメリカ政治体制の変革や日米同盟の改革を訴えている。英語、日本語、韓国語、中国語での著書多数。近著に『沈没してゆくアメリカ号を彼岸から見て』(論創社)。