福岡大学名誉教授 大嶋仁
ヨーロッパとは単なるEUではない。音楽、美術、哲学、科学、キリスト教、さらには啓蒙思想まで、多様な要素から成る「文明」としてのヨーロッパが、本来の姿である。しかし、そのヨーロッパはいま、アメリカ依存と自己喪失により、自立性と知性を失いつつある。ロシアとの断絶や、日本を含めた他文明との関係も複雑化するなか、真の復興には古典的精神と哲学への回帰が不可欠だ。ヨーロッパの未来を考えることは、同時に世界の未来を問うことでもある。
(4)日本
日本は第二次世界大戦後、ヨーロッパから遠のいたかに見える。アメリカが日本のモデルとなったからだ。しかし、明治維新の日本に戻って考えよ。当時の日本は「近代化」を急いだが、その実質は「西欧化」、すなわちヨーロッパ化だったのだ。
これからの日本がより良い方向に向かうには、明治の昔にさかのぼり、ヨーロッパを捉えなおす必要がある。つまり、明治の日本にとってヨーロッパとは何だったのか。日本はヨーロッパの何を模倣あるいは摂取しようとしたのか。それを見つめ直さねばならない。
この問いの答えを求めようとすれば、福沢諭吉に行きつく。福沢のとくに『文明論之概略』(1875年)が、その答えを提供してくれる。この本は「近代日本人必読の書」というべきものだ。
福沢によれば、日本にかぎらずアジア全体、「未開」ではないが「文明」でもない中途半端な状態にある。「文明」とは人類の知性が輝く世界で、そのような世界を最もよく達成しているのが西欧、すなわちヨーロッパなのである。
インドや中国にも文明はあるが、それが西欧文明と違うところは、古くからの思考形態に固執して、知性の発達を鈍らせている点だと彼はいう。知性とは「合理的な思考能力」のことで、それを最もよく発達させているのが西欧だ、と言いたかったのである。
彼は西欧文明が「科学」を発達させているところに、その優越性を見る。中国では陰陽五行説のような古来の世界観を疑う者がなかったが、西欧では既成概念を疑うことで、たとえば地球が太陽の周りを回り、ほぼ24時間で自転していることまで突き止めている、と見たのである。
ヨーロッパで科学が進んだのは、その社会が情報共有システムを確立しているからで、また子どもたちに物事を考えることを教え、その考えをたしかめる手立てまで授けているからだ、と彼はいう。そのような情報共有社会の建設と、思考能力を増強する教育システムの構築を、彼は日本にも望んだのだ。
政治形態については、多くの人が公衆の面前で意見を戦わせることのできる西欧型システムが望ましい、と言っている。しかし、形態を真似ればいいというものではなく、そうした形態を実現できるだけの国民性を育てることが先決だ、と主張したのである。
そうなると、一にも二にも教育システムが大事ということになる。「日本が独立するには国民1人ひとりが独立していなくてはならない」と主張する彼は、「自分で考え、自分で判断できる人間」の育成を最大目標としたのだ。
このような福沢の考え方は、今日でも支持する人が多いだろう。では、実際の日本は彼の望んだような社会を実現し、それに見合った教育システムを確立しているか?
どう見ても、そうなってはいない。一体、これはどうしてか?
福沢の西欧化論は、明治の最初の10年間に全国に浸透した。彼の書いた『学問ノススメ』はベストセラーとなった。しかし、彼の「啓蒙」運動は少しずつしぼんでゆく。彼の「個」の育成を重視する精神が、天皇制国家としての団結を強調し、「富国強兵」を掲げる明治政府と相容れなかったからである。
政府の目指す「富国強兵」は、「西欧列強」並みに軍事力と経済力をもつ国家の建設を意味した。福沢とて日本が強くなり、金持ちになることを望んでいなかったわけではないが、それだけでは「文明」は達成できないと彼は考えた。彼にすれば、ヨーロッパが優れているのは世界を植民地化しているからではなく、「理知」の発達した社会を構築しているからだったのだ。
政府の連中にはそれがわかっていない、そう福沢は感じた。そこで彼は、いたずらに政府を非難するよりは、国民の精神的発達を促す私立学校づくりとメディアの強化に意を注いだ。
「独立自尊」をモットーにした福沢だが、この精神こそ日本人に欠けていると彼は見ていた。道行く人々を実験して、あるときは居丈高に、あるときは低姿勢で臨んでみると、こちらが高姿勢だと相手は低姿勢になり、こちらが低姿勢だと相手がいばり散らすという結果が出た。そこから彼は、日本人は相手次第で態度が変わる民族で、これではこの先「世界でやっていけない」と見たのである。
彼の四女タキは、敗戦後の日本人がアメリカに平伏するのを見て、「父が見たら嘆いただろう」と言っている。要するに、「自尊」の念がないということで、西欧文明を摂取したからといって「自尊」の念を失ってはならない、というのが彼女の父の考え方だった。
では、日本人はヨーロッパ人のように「自主独立」の精神をもつことはできないのか? そんなことはないということは、たとえば欧州で活躍するサッカー選手が示している。彼らはチームのためにはたらいているが、そのためには「個」の主張が大事であることをよく知っている。私たちの模範として、彼らを見ならうべきだろう。
(つづく)