写真家片岡英統さんから、『他国の風』(誠文堂新光社)と題する写真集が送られてきた。彼はたった一枚の凸レンズ(虫眼鏡レンズ)をカメラに装着して撮影する。当然被写体と周辺がフォーカスアウトになり、写真全体がぼやける。この特殊な手法で50年余、世界16カ国、177点を取り上げた集大成だ。彼は「なんとなくボーッと眺めている風景、夢に出てくる朧な情景…」をイメージした写真集という。とんでもない、どの写真も饒舌で見る者に積極的に語りかけてくる能動的な写真集だと思った。実は彼の父、片岡一久という男は日本の経済史上とんでもない人物だった。
今も使われている「組番号」「下何桁」
という抽選方法を考案
太平洋戦争末期、戦費不足に陥った日本政府は、各種公債を矢継ぎ早に発行したものの、次第に売れ行きに陰りが見えてくる。軍が勝手に軍事費を増大させ、それを公債で賄おうとする悪循環(国債に依存し続けるどこかの国の経済状況と酷似している)は、結局軍需インフレという厄介なものまで登場させることになった。だぶついた通貨を吸収し、同時に軍事費を調達する、それでいて、国民が競って買い求めるような魅力をもち、資金調達額の多いナントモ都合の良い「商品」の開発が求められていた。現金を償還しなくてはならない「債券」ではなく、当選金だけを払い戻せばいい「商品」、つまり「富くじ」を本気で考えていた。しかし「富くじ」には常に「不浄」という歴史がつきまとっていた。この難問解決に、当時勧業銀行戦時債券部発行課に所属していた片岡一久に白羽の矢があてられた。

片岡が最初に手がけたのが「事務の簡素化」だった。「勧業債券」を発行していた勧銀は、償還にあたり抽選により「割増金」という賞金がついた。債券の償還が終わるまで毎年1回(当初は年2回)抽選し、当選した債券の所有者に当選金を渡していた。その抽選方法が今では想像もできない稚拙なものだった。たとえば債券購入者が10万人いたとする。巨大な網目状の鉄球に、ピンポン玉大の木球を10万個入れる。木球には「1番から10万番」までの数字が書きこまれている。その巨大な鉄球を数人がかりで回して攪拌。その後、長い棒状のキリで1つひとつ突き出す作業を、決められた当選数(100回から1,000回ほど)だけ繰り返す。この気の遠くなりそうな作業をするのが大卒のエリートたち。これを片岡は「0」から「9」の僅か10個の数字だけで、あらゆる抽選を可能にした。短時間に、抽選ミスという事故もなくクリアできる。現在も使われている「組番号」「下何桁」という抽選方法である。片岡はこの方法に「番号抽選論序説」と題して発表した。この画期的な開発に、勧業銀行総裁から「勧銀総裁賞」が授与された。片岡一久33歳の時である。
帝国議会との戦いを征す

「富くじ」発行には巨大な壁が屹立していた。その壁こそ「不浄な金」と「射幸心を煽る」という文言だった。とくに勅撰議員と枢密院では、「この聖戦を不浄な金で戦えるか」という強い意識があった。これを解決するにはまず大蔵省を落とさなくてはならない。大蔵省国民貯蓄局に林修三(後に法制局長官を務める)という切れ者がいた。片岡は林に近づく。林もまた「富くじの発行しかない」という片岡と同じ考えをもっていた。
だが壁は予想以上に厚かった。一気に「富くじ」発行は難しいと判断した片岡は、債券と富くじの中間に位置するような債券、「福券」を考案する。これは報国債券の延長線上にある債券なのだが、一等をそれまでの1万円から実に5倍の5万円に増額。元金保証、20年後償還、無利子、抽選は1回のみ。つまり抽選に外れてしまえば、20年後に元金しか戻らない。元金保証という点では「債券という衣」をまとってはいるものの、中身は限りなく「富くじ」に近い。仮に元金を償還せず、その代わりに賞金額をさらにアップさせれば、もうこれは立派な「富くじ」だ。1944(昭和19)年8月30日、小磯国昭内閣の蔵相石渡荘太郎の「発行命令」というかたちで閣議了承された「福券」は、片岡の予想通り売れに売れた。これには聖戦完遂組も口出しできなかった。
この成功に乗じて片岡は一気に攻めた。まず「射幸心」という言葉を「愛国心」、つまり「国民の愛国心に訴えて…」と言い方を変えて大蔵省に提出。大蔵省を納得させた。そして、昭和20年1月22日の第86回衆議院議員本会議で石渡蔵相は、「富くじ発行は天下の世論である」と発言した(させたのである)。皮肉にも、戦況の悪化と戦費財源の逼迫が、「不浄な金でこの聖戦を戦えるか」と叫ぶ反対派を封じ込めたのである。
巣箱に群れる蜜蜂のように
10円札を握りしめた手が伸びてきた
「ゴーサイン」が出された。片岡たちは発行に全力を傾けた。「勝札」は1枚10円で45(昭和20)年3月まで発行総額6億円(数カ月後に終戦を迎えるとは想像していない)。7月の第1回発売分として2億円。10万枚を1組として計200組。つまり1等10万円が全部で200本となる。売り捌きを全国煙草組合、百貨店組合、鉄道弘済会、新聞共同即売組合など、国民生活に深く関わる諸団体とした。さらに個人で売り捌く「小売人」も条件付きながら加えた。この小売人を加えたことが、戦後街角で見かける個人経営の宝くじ販売所につながる。個人の小売人のなかには悪質な輩が混じることも考慮し、「すべて現金決済。本券を仕入れる際も現金」と定めた。

採用された小売人のなかに下小松(現・新小岩)に住む八巻務(52歳、取材時94歳)がいた。八巻は下小松駅南口の交番前(盗難回避のため)で、朝夕に売り捌いた。その時間だけ乗降客が賑わいをみせた。「とにかく売れに売れた。1枚10円という金額は安くはないよ。戦時インフレで商品価値が極端に下落してしまったとはいえ、数年前まで10円といえば、白山の芸者の玉代と同額だし、牛肉(100グラム80銭)は腹いっぱい食えた。でもね、所詮買うものがないんだよ。だから紙屑になってしまうかもしれない10円で、勝札を買い求めたんだろうね。1等10万円という“夢”に託したんだよ」と話した。八巻は実に14万枚を売り捌き、手数料7万円(売上の5%。全国の小売人のなかで最高額)という大金を手にした。八巻はこの金で郷里福島の持ち山を買い戻し、現在住んでいる家屋を購入。残りは戦後スタートする「宝くじ」の資金とした。
45(昭和20)年8月15日、売り捌き最終日に、聖戦完遂のための最後の切り札ともいうべき「勝札」は、いきなり「負札」に変身してしまう。日本は戦争に負けたのだ。しかし片岡たち勧銀戦時貯蓄部(債券部を改称)のメンバーは「裏面に記された通り、今月25日に抽選するのが筋」と抽選のため動き始めた。ところが廃墟と化した都内の建物での抽選は不可能だった。偶然抽選機などの機材を疎開させていた長野支店で抽選。会場にいた多くの市民から抽選のたびに大歓声が上がり、最後の1等10万円、各組共通「ジューイチマンゼロヨンヒャクナナジューサン(110473)バン」とコールされると会場は、「ウォー」という割れんばかりの大音声。こうして第1回にして最後の「富くじ」抽選会は無事終了した。偶然にも大蔵省と勧業銀行はほぼ無傷で残った。「勝札」発行に関わった人たちも多くが生き残った。これが戦後、急激なインフレ対策に有効な手段として「宝くじ」発行を生むこととなる。皮肉にも「戦費調達」から「インフレ抑制」という秘密兵器として生まれ変わることになる。戦後発売の「宝くじ」の話は後日に回したい。戦時中、破綻した日本経済を支えた1人、それが片岡一久なのだ。

※参考文献/『目で見る宝くじ30年史』(片岡一久著)/『夢は世につれ…宝くじ30年のあゆみ』(第一勧業銀行宝くじ部)/『取締役宝くじ部長 異端のバンカー・片岡一久の生涯』(文藝春秋)/『宝くじ戦争 戦後の日本を救ったのは宝くじだった』(洋泉社新書y)後半2冊は拙著。
<プロフィール>
大山眞人(おおやま まひと)
1944年山形市生まれ。早大卒。出版社勤務の後、ノンフィクション作家。主な著作に、『S病院老人病棟の仲間たち』『取締役宝くじ部長』(文藝春秋)『老いてこそ2人で生きたい』『夢のある「終の棲家」を作りたい』(大和書房)『退学者ゼロ高校 須郷昌徳の「これが教育たい!」』(河出書房新社)『克って勝つー田村亮子を育てた男』(自由現代社)『取締役総務部長 奈良坂龍平』(讀賣新聞社)『悪徳商法』(文春新書)『団地が死んでいく』(平凡社新書)『騙されたがる人たち』(講談社)『親を棄てる子どもたち 新しい「姥捨山」のかたちを求めて』『「陸軍分列行進曲」とふたつの「君が代」』『瞽女の世界を旅する』(平凡社新書)など。