26年度予算で崇福寺山門の所有権を取得
現在、福岡市博多区千代にある崇福寺(そうふくじ)の山門となっている、かつての福岡城表御門について、福岡市は2026年度中に所有権を取得し、将来的に福岡城跡への復元移築を計画していることが分かった。
後嵯峨天皇より下賜された「西都法窟」の文言が掲げられている
16日に発表された福岡市の26年度当初予算案の中で、経済観光文化局が取り組む「文化財の保存・活用」のうち、福岡城跡復元整備事業として計上された3億1,973万円のうちの約1億7,500万円が崇福寺山門の所有権を取得するための予算となっている。
福岡市の史跡整備活用課によると、市はすでに23年から寺側と交渉しており、26年度はこの山門(建物)の所有権の取得までを行う。山門は福岡県が指定する有形文化財であるため、慎重に調査・解体を行い、その後、福岡城跡の表御門があった場所に再移築する予定だ。なお、再移築が完了する時期は未定。
福岡城跡における移築復元は今回が初めてではない。昨年竣工した福岡城跡三の丸北西隅の「潮見櫓」も崇福寺から移築復元されたものだ。1908年までに崇福寺に移築され仏殿として使用されていた建物があったが、90年に始まった福岡市の調査の際に小屋裏で見つかった棟札から、その建物が福岡城の潮見櫓だったということがわかった経緯がある。
今回、移築復元計画が明らかになった本丸表御門は、福岡城の本丸にのぼる北側階段の下にかつて設けられていた門で、現在は「本丸表御門跡」として案内が設置されている。表御門跡には通路の延段、階段、階段横の排水施設まで良好な状態で現存している。ここに建物として表御門の移築復元が実現すれば、本丸へ向かう主要な動線上に初めて歴史的建造物をともなって往時の空間が再現されることとなり、福岡城における歴史体験空間の提供において大きな意味をもつ。
CGでは2階の櫓部分は総塗籠壁になっているが、現状の崇福寺山門は2階は中段庇を境に上部が塗籠壁、下部が縦板張りの外壁に物見窓を設けた構成となっている。実際の移築復元時に左右の石垣の上に乗った部分も含めてどのように再現されるのか興味深い。
表御門は破壊された福岡城の貴重な現存遺構
現在の福岡城跡は周知の通り、広大な土地に大規模で保存状態の良い雄大な石垣が残されているが、石垣の上にあったはずの建物はほとんど残されていない。
福岡藩黒田氏の居城であった福岡城は、明治維新後の廃藩置県に際して一時、福岡県庁が城内に置かれるが、1873年の廃城令以降は軍用地とされ、近代化政策における旧物破壊のなかで城内の建物は多くが破壊された。櫓や門、塀といった建造物の一部は、解体されて材木として売却されるか、そのままのかたちで寺社や民間に移築され新たな用途で利用されたものもあった。
表御門は1918年に払い下げの許可が出て、20年に黒田家の菩提寺である崇福寺に移築され、同寺の山門となった。現在、山門内部には木造如意輪観音像、黒田如水の肖像画や十字架が刻まれた築城当時の瓦などが展示されている。このような経緯をへて崇福寺の山門として残された表御門は、往時の福岡城の主要建造物として極めて貴重な遺構である。
里帰り移築というストーリー、信州上田城の北櫓・南櫓
明治維新後の情勢のなかで似たような運命をたどった建築物として、長野県の上田城の北櫓・南櫓がある。上田城は戦国武将・真田氏の居城であった。明治維新後の廃城により城内の建物は解体され、全部で7棟あった櫓も西櫓の1棟を残して撤去された。そのうち2棟は1875年、上田城北方の遊郭へ払い下げ移築されたが、1941年に市内の建築業者から東京の料亭に転売され市外に流出する可能性が出たため、市民有志らが上田城址保存会を結成して、2棟の櫓を買い戻した経緯がある。
43年から上田城内への再移築が進められ、第二次世界大戦の戦局悪化による中断をはさみながら49年に現在の場所に復元された。その後、93年には古写真を基に2つの櫓の間に櫓門が木造復元され、南北の櫓と一体となった城門空間が再現された。上田城の歴史空間を再現するうえで貴重な建造物となっている。
出所:上田市ホームページ
福岡城の表御門は100年以上にわたって崇福寺の山門として守られてきた。こうした経緯は、再び福岡城の表御門として移築復元しようとする今回の構想に至るまで、時代の変化のなかで郷土の歴史的遺産を守り伝えようとしてきた数多くの人々の存在を物語っている。そうした人々に思いをはせつつ、移築復元構想の今後を見守りたい。
【寺村朋輝】








