ついにきたメディアの断末魔(後)

『週刊現代』元編集長 元木昌彦 氏

 ニューヨーク・タイムズと並ぶアメリカのクオリティペーパーであるワシントン・ポストが大々的なリストラを行った。デジタル化への遅れがあるようだが、実態は権力者にすり寄る経営者の姿勢に読者が離れたことが大きい。この国の新聞は生き残れるのか?

巨額資金と代理店依存の「情報戦」

イメージ「自民党広報本部の広報戦略局には、大手広告代理店の社員が常駐しています。公示の1週間前からは『情報戦略会議』が開かれ、選挙期間中の広報戦略や報道対応について協議が行われる。会議には、広報本部や選対本部、組織運動本部の職員に加え、代理店の社員も参加します。党職員はネット広告に精通しているわけではないため、基本的には代理店に頼りきりです」(自民党関係者)

 莫大な資金を湯水のように使い、スマホ利用者をターゲットに、大量にサナエ情報を配信する。たしかに、これが石破茂前首相だったら、こうはいかなかっただろう。

 かくして、サナエの虚像ばかりが膨れ上がり、それが1人歩きして、「サナエ大好き」「サナエは日本の救世主」という“妄想”にかられた有権者が自民党に投票したというわけだ。

 私には高市自民党が今後何をやってくるかにはそれほど関心はない。巨大化した自民党は、常に内部対立が起こり、分裂していくことはこれまでも幾多の例がある。

 それよりも、部数や視聴者離れが顕著で、影響力さえ失いつつある既存メディアの今後について関心がある。

 私は、テレビはもはや手の施しようがないと考えている。今もできるテレビ局の人間たちは社を辞し、自らメディアを立ち上げたりしているが、近い将来、Netflixやディズニー、アップルなどの巨大配信事業者に飲み込まれ、そこの下請業者になることは間違いない。

 Netflixが、米メディア大手のワーナー・ブラザース・ディスカバリーを買収することで合意したといわれるが、こうしたことはこれからも次々に起こることは間違いない。

 では新聞はどうだろう。

 私のように、朝、新聞を郵便受けに取りに行って、日本茶を飲みながら読むのが習慣になっている人間には、新聞のない生活など考えられない。

 だが、そうした人間はもはや「絶滅危惧種」であろう。

生き残る道は「読まれる調査報道」しかない

 では、新聞が生き残るためには何をすべきか? テレビやSNSなどの底の浅いメディアにはできない、読まれる「調査報道」をすることしかないと思う。

 ここで重要なのは「読まれる」ということだ。記者が自分の功名心や深く掘り下げない調査報道では、読者は読んではくれない。

 手元に高田昌幸が書いた『調査報道の戦後史』(旬報社刊)がある。高田は、1986年に北海道新聞に入社。2004年に北海道警察の裏金問題取材で取材班代表として新聞協会賞、菊池寛賞、日本ジャーナリスト会議大賞などを受賞している。現在は東京都市大学教授。

 戦前、戦後の多くの優れた調査報道を引用して、それが社会をどう変えたのかについて詳しく触れている、ジャーナリズムに携わる人なら必読の本である。

 高田は「調査報道」をこう定義づけている。①記者が取材・報道に責任をもつ。②テーマは社会的な関心を呼び起こすものであること。③当局者が隠そうとしている事実を対象とすること。

 リクルート事件をスクープした朝日新聞の山本博は、「調査報道の対象は公的存在であるべし」と規定している。文春などの芸能人たちの不倫報道は、調査報道ではない。

 高田の本のなかでとくに優れた調査報道をした3人を挙げれば、毎日新聞の大森実、読売新聞の本田靖春、大阪読売新聞の黒田清であろう。

 私は、大森とは会っているが、それほど深い話をした記憶はない。本田と黒田とは、飲み友達、カラオケ友達であった。

 黒田は東京のテレビ局のモーニングショーに出るため、前の日から上京して、旧友の本田と新宿西口の墓場の裏にあるスナックで、私も入って3人でよく飲んだ。

 テレビ局へ行く少し前まで飲んでいて、何度も「黒田さん大丈夫なの?」と聞いたものだった。

 だが、たいしたもので、テレビで見るとコテコテの大阪弁でまともなことを話していた。

 大橋巨泉もそうだった。彼は日テレの『11PM』に出る直前まで私と銀座の店で飲んでいて、「元木、いけない。そろそろ本番だ」と、私と一緒にタクシーで駆け付けた。

 だが、スタジオの隅で見ていたが、顔にも口調にも、直前まで飲んでいたとは思わせなかった。

戦後記者の覚悟と、いま問われる責任

 話がそれたが、毎日の大森は、日本で最初に「潜入取材」をした記者ではないかといわれている。
 敗戦から4年後の1949年。大森らは、内部告発があった浮浪者たちの更生施設「岡田更生館」に、自らも浮浪者に変装をして潜り込んだのだ。

 ここは更生を謳っているが、中はまともな教育も行われない極めて劣悪な環境で、次々に死人が出ているというのである。

 脱走を企てて捕まれば、こん棒などで殴り殺されるという。しかし、これだけの情報を鵜吞みにして書くわけにはいかない。

 大森はアメリカのジャーナリズム界では潜入取材が当たり前に行われているのを読み、自分もやってみようと考えた。

 だが、そこで大森が見たのは「この世の地獄」だった。

 首尾よく潜入できた大森に出されたアルミ椀に入った雑炊を見て大森は、
「(雑炊は)吐き気をもよおす悪臭だった。隣に並んだ収容者は『飲み込むんだぞ。食わねば死ぬだけで、第1、第2作業場送りだ。目をつむって飲め』といった」

 正体がバレ、捕まりそうになるが、何とかそこを脱出して、大森は生々しいルポを書き、捜査当局も動いた。

 館長や職員は暴行や傷害、横領などで10人以上が逮捕されたのである。

 読売新聞社会部本田靖春の「黄色い血キャンペーン」は、献血制度を売血から献血へと変えた。

 東京オリンピック前の1962年。本田は当時、多くの日雇い労働者たちがいる「山谷」へ潜入取材する。

 彼らの多くが「売血」することでその日暮らしをしていた。血を売るのは1週間に1度と決められていても、そんなことは守られず、日に2回、3回と売血する者がいた。生きるために血を売る。貧血のため倒れるものも多くいた。

 そうした黄色い血を輸血された人たちの6人に1人が血清肝炎になり、その3割から4割は不治の病といわれていた肝硬変になった。

 本田は自らも売血の列に並び、血を売った。後になり、感染症のため本田も肝硬変になったが、私に「これはオレの勲章だ」と笑い飛ばしていた。

 このルポが「黄色い血の恐怖」という長期連載になり、政府が動き、赤十字血液センターが各地に開設され、今のような献血制度になったのである。

 黒田が率いた大阪読売社会部は「黒田軍団」と呼ばれ、数々の優れた調査報道を世に出したが、黒田の方針はこうだったという。
「警察や検察が手出しできんもんで、世の中に必要なもん、ほんまはこれが新聞の領域や」

 大阪の鋼材商社堀田ハガネなどが韓国に砲身の「半製品」を輸出している事実を1年がかりの取材で明るみに出した。通商産業省(現在の経済産業省)の許可も得ておらず、武器輸出三原則を骨抜きにするというものだ。

 この調査報道を終えた黒田は、こう話している。
「……戦時中の数多くの記者は、厳しい言論統制のなかで、取材をし、事実を積み重ね、日本の国が現在どうなっているかということについて真実に近づいた。戦争は無謀なかたちで始まり、無謀なかたちで進行していった。そのまま進行すればどのようになって行くか。それを一般の人たちに知らせることは新聞記者の職務であった。しかしそれを書くことはできなかった。その人たちを、勇気がなかったのだと言ってそしる気持ちはまったくない。書きたい、書かねばならない。しかし…と繰りかえし繰りかえし悩んだ先輩記者たちの心のなかを思うとたまらない気持ちになる。書けないことは無念であったろうとも思う」

 そしてこう続けた。
「私たちは、この先輩記者たちの負い目を、その人たちのものだけと考えてはならない。この負い目は新聞記者という職業にたずさわるすべてのものが、ともに持ち続けるべきものなのだ。いま、言論の自由といわれる平和社会のまっ只中で、常に自分に問い続けなければならないものでもある。
 言いかえれば、現在の新聞記者がいうべきことを言わず、なすべきことをなさずして、日本の国が再び戦争にまき込まれるのを拱手傍観していたなら、戦後の戦争犯罪人、いわば“戦後犯罪人”という烙印を押されても仕方がないということである……つまり私たちはこの事件を堀田ハガネという企業の問題としてとらえたのではない。いや、武器輸出の問題として書いたのでさえない。新聞記者と戦争ということを改めて考えたくて書いたのである」

 高市首相は圧倒的な数を力に憲法改正を発議したいと明言している。非核三原則も換骨奪胎され、武器輸出国への転換にも言及している。

 記者がやらなければいけないことは山積しているのだ。これは黒田のいうように、国が戦争をできる国へと変容しているのを、黙って腕を組んでいるのでは、誰も新聞など信用しなくなるのは自明である。

 今こそ、原点に立ち返って、記者が、ジャーナリストがやらなければならないことをやるのだ。そうすれば、国民もバカばかりではない。

 間違いなくこの国は岐路に立っている。戦後、今ほど真の新聞記者やジャーナリストが必要とされる時代はない。それができなければ、新聞など潰れてしまえ!

(以下次号)


<プロフィール>
元木昌彦
(もとき・まさひこ)
『週刊現代』元編集長 元木昌彦 氏『週刊現代』元編集長。1945年生まれ。早稲田大学商学部卒。70年に講談社に入社。講談社で『フライデー』『週刊現代』『ウェブ現代』の編集長を歴任。2006年に退社後、市民メディア「オーマイニュース」に編集長・社長として携わるほか、上智大学、明治学院大学などでマスコミ論を講義。日本インターネット報道協会代表理事。主な著書に『編集者の学校』(講談社)、『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)、『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)、『現代の“見えざる手”』(人間の科学新社)、『野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想』(現代書館)など。

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