制作メモランダム
「Phoenix 不死鳥」は、翼を広げて空へ舞い上がる瞬間の鳥ではない。むしろそれは、燃え尽き、灰となり、なお深い蒼のなかで脈動し続ける再生の前段階を描いている。画面を貫く青は空ではなく、海でもない。生と死の境界、言葉がまだ名前をもたない原初の層である。そこに浮かぶ暗い核は、死の影であると同時に、次の誕生を孕む“胎動”でもある。
神秘思想においてフェニックスは、単なる復活の象徴ではない。それは自己を完全に焼き尽くすことを厭わない霊的存在であり、「同一性を保持したまま蘇る」のではなく、変容した存在として再出現する。本作では、金属的な質感を帯びた白や銀の層が、蒼の深層から浮上している。これは錬金術的にいえば、Nigredo(黒化)の暗い中心部、Albedo(白化)の浮遊する白い亀裂、Rubedo(赤化)の不在として暗示される炎という三段階が、同時的に重ね描きされている状態である。フェニックスはまだ完全には立ち上がらない。だが、すでに再生は始まっている。
初期キリスト教においてフェニックスは、復活の隠喩として受容された。しかしこの作品は、勝利の復活像ではなく、十字架と復活のあいだにある沈黙の時間を強く想起させる。深い青は、聖金曜日から復活祭前夜までの「神が沈黙している時間」であり、黒い核は、墓に横たわるキリストの身体を思わせる。だがここで重要なのは、光が外から差し込まれていないことだ。光は内側から、物質そのものの層からにじみ出ている。それは、神が介入する復活ではなく、受難を引き受けた存在そのものが、内側から変容する復活である。フェニックス神話は世界各地で語られるが、それらに共通するのは「再生が祝福ではなく、犠牲をともなう」という点である。本作のフェニックスは英雄的ではない。むしろ、世界の深層に溶け込み、神話がまだ言葉になる前の宇宙的記憶として漂っている。それは「語られる神話」ではなく、まだかたちをもたない神話=神話になる前の神話である。
深層心理学的に見れば、このフェニックスは自己の中心(セルフ)を示す。黒い核は抑圧された影(シャドウ)であり、蒼の広がりは集合的無意識の海である。重要なのは、影が排除されていないことだ。影は中心に残され、そこから全体が再編成されている。これは、トラウマや喪失を消去することなく、それを核として再生する心理過程を示唆する。フェニックスとは、「立ち直った自己」ではなく、傷を抱えたまま、新しい構造へと変容した自己なのだ。この作品は、存在を「同一性の持続」として捉えない。それはむしろ、生とは、繰り返し自分であることをやめる運動であるという哲学的立場を体現している。フェニックスは“同じ存在”として戻らない。戻るたびに、もはや以前の自己ではない。
青という色が支配的であるのは、生と死、肯定と否定の二項対立を超えた、中性の場を示すためである。この『Phoenix 不死鳥』は、具象を拒否することで象徴を深化させている。羽根も炎も描かれないからこそ、フェニックスは“形象”ではなく、プロセスとして存在する。紙という脆弱な支持体に、重層的で鉱物的な絵肌を築く行為そのものが、壊れやすさのうえに、永続を描くという逆説を孕む。この作品は、再生を祝わない。再生の痛み・沈黙・暗さを引き受けたうえで、それでもなお続いてしまう生命の運動を、静かに提示している。








