2024年04月17日( 水 )

認知症徘徊時の事故の責任と差別意識(後)

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大さんのシニアリポート第43回

サロン幸福亭ぐるり<

サロン幸福亭ぐるり

 近年、親を看ないのに遺産分与のときだけは取り分を主張し、裁判になるケースが増えていると聞く。「親を熱心に看れば看るだけ賠償責任が増す」というのでは確かに割に合わない。拙著『悪徳商法』(文春新書)に、詐欺師と知っていながら金を支払う高齢女性の話がある。理由は、「親切にしてくれたから。一度も顔を見せない子どもたちに、財産を残すつもりはない」といった。当然、それに気づいた子どもたちが母を責めるが、後の祭り。「親を看ない子どもたちへの意趣返し」というわけでもないのだろうが、取材したわたしには、彼女の気持ちが十分理解できた。

 「在宅での介護はできるだけ引き受けない」となると、当然介護施設が必要となる。国にその予算はない。介護職員不足も加わり、実現は限りなく遠い。厚労省は、「地域包括ケアシステム」(重度な要介護者を住み慣れた自宅や地域で看る。当然認知症者も含まれる)という方針にシフトした。在宅介護が主流とならざるを得ないとき、介護者自身に賠償責任が負荷されるという矛盾をどのように考えればいいのだろうか。

 スーパー大辞典には、“徘徊”を「目的もなく、うろうろと歩き回ること」とあるが、介護の現場では、「認知症の徘徊は、ある目的を持って歩く」と規定している。途中で目的や帰り道が分からなくなったりするだけなのだ。三十数年前、帰郷して母を老人病棟に入院させ、毎日、面会に通い続けたことがあった。その病院でも、痴呆症(当時)の高齢者が多く、その中のひとりの高齢女性がある日、施錠していない裏扉から病院の外に出てしまった。病院関係者が八方手を尽くして捜したものの、見つからない。翌朝、病院と隣接する民家の居間にある炬燵の中で発見された。彼女は「ふるさとに帰るつもりだった」と語ったという。「目的もなく徘徊することってないのよ」と担当の看護士が話してくれた。「徘徊」という言葉が適当ではないとして、近々呼び名の変更があると介護専門学校に通う妻が教えてくれた。

カラオケを楽しむ香川涼子さん<

カラオケを楽しむ香川涼子さん

 急に場所(環境)が変わると認知症は進むといわれている。運営する「サロン幸福亭ぐるり」の常連客で、認知症を公表した香川涼子さんを思い出すことがある。香川さんは昨年末に施設に入所された。「わたしは耐えることに慣れていますから」が口癖だった。突然の入所で、認知症が進んでいなければ、と思う。でも、不安を打ち消すことも大切だ。認知症をプラス面から捉えれば、決して悪いことばかりではない。

(了)

<プロフィール>
大山眞人(おおやま まひと)
1944年山形市生まれ。早大卒。出版社勤務ののち、ノンフィクション作家。主な著作に、『S病院老人病棟の仲間たち』『取締役宝くじ部長』(文藝春秋)『老いてこそ二人で生きたい』『夢のある「終の棲家」を作りたい』(大和書房)『退学者ゼロ高校 須郷昌徳の「これが教育たい!」』(河出書房新社)『克って勝つー田村亮子を育てた男』(自由現代社)『取締役総務部長 奈良坂龍平』(讀賣新聞社)『悪徳商法』(文春新書)『団地が死んでいく』(平凡社新書)『騙されたがる人たち』(近著・講談社)など。

 
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