政治経済学者 植草一秀
米国の雇用統計に異変が生じた。8月2日に発表された7月雇用統計で雇用者増加数が7.3万人と発表された。市場予想は10.8万人の増加。市場予想を下回ったことが〈異変〉ではない。今回統計数値の発表と同時に6月分、5月分数値が大幅に改定された。5月の雇用者増加数は14.4万人が1.9万人に下方修正。6月の雇用者増加数は14.7万人から1.4万人に下方修正された。
米国経済では毎月の雇用者数が15~20万人増加するのが標準。経済が巡航速度で航行を続けている場合には雇用者数が月間5~20万人増加する。ところが、今回の7月統計発表と5月、6月分の改定で、直近3ヵ月の雇用者増加数が合計で10.6万人になった。月間5~20万人増加するのが基準だとすると米国経済に急ブレーキがかかった可能性がある。
7月30日のFOMC(連邦公開市場委員会)でFRBは金利の据え置きを決めた。トランプ大統領は利下げを強く求めているがFRBのパウエル議長は利下げ実施に対して慎重な姿勢を維持している。理由は米国経済指標が米国経済の拡大を示唆している一方で、米国消費者物価上昇率が下げ止まりから若干の上昇傾向を示していることがある。
インフレ率上昇の一因になっているのがトランプ関税。関税率が上昇すると物価統計に反映される。関税率引き上げでインフレ率の数値が上方に圧力を受ける。パウエル議長は「トランプ関税がなければ利下げを実施できていた」と述べる。この発言は正当なものだ。しかし、雇用統計での雇用者増加数が、今回改定された低い数値で当初から発表されていれば、FRBは7月のFOMCで利下げを決定していた可能性はある。
異例とも言える大幅な数値改定が行われた。このことを受けてトランプ大統領は米国労働省労働統計局(BLS)のエリカ・マッケンターファー局長の解任を命じた。トランプ大統領は、「共和党と私の評判を落とすために不正に操作された」と自身の交流サイト(SNS)「トゥルース・ソーシャル」に投稿した。統計が不正に操作されたのかどうかは不明。しかし、トランプ大統領はFRBが利下げに慎重姿勢を示していることに立腹している。
私はトランプ2.0に三つの〈死角〉があると指摘してきた。第一は関税政策で世界経済を悪化させること。第二はFRB介入で金融市場大波乱を招くこと。第三はイスラエル寄り姿勢を鮮明にして中東での大規模戦乱を招くリスク。
トランプ大統領は大統領に国家の独裁権限があると勘違いしている。大統領であるからすべてのことを決定できるオールマイティを有していると勘違いしている。この思い込みは正しくない。トランプ大統領が適正な経済政策運営を行える類まれなる学識と判断力を有しているなら、トランプ独裁は良い結果をもたらすかも知れない。しかし、そうでないなら、独断による経済政策遂行は著しい事態悪化を招く原因になる可能性がある。
トランプは米国経済を強化するために高率関税政策を推進しているが、所期の目的を実現できる可能性は低い。国際分業体制は構造変化する。とりわけ、製造業の立地は経済諸要因によって変遷する。工業製品の生産拠点は米国から日本に移り、そして、アジア諸国等に移る変遷を示してきた。
関税率を引き上げれば米国製造業が復活すると考えるのは短絡的すぎる。また、これまでに類まれなる高い政策運営パフォーマンスを示してきたパウエルFRB議長を解任することも妥当でない。しかし、トランプはすべてを自分で仕切ることを追求する。この〈過剰自信〉が大きな失敗の原因になる可能性は高いと判断する。日米の関税交渉が決着したと報じられているが極めて不透明な決着だ。
日本に対する相互関税の税率は15%とされた。自動車と自動車部品に対する関税率も15%に引き下げられることになった。この自動車関税率を得るために日本政府が何を支払ったのか。それが問題だ。
二つの大きな代償が示されている。第一は農業、航空宇宙、防衛装備品における極めて不可解な取り決め。第二は戦略産業9分野に5,500億ドルの投資を行うとされたこと。農業についてはミニマムアクセス米輸入の枠内で米国産米の輸入を直ちに75%増やすこと。これで終了するとは思われない。「米を売って自動車を買った」疑いは濃厚だ。
防衛装備品については日本が毎年米国の防衛装備品を数十億ドル購入することとされた。日本の防衛装備品は日本が主体的に判断して決定するべきもので、米国から米国製防衛装備品の購入を強要されるいわれはない。
航空宇宙分野ではボーイング機を100機購入することが示された。政府がボーイング機を購入するわけではない。民間事業会社が調達する航空機をボーイング社にする正当な理由は存在しない。
40年前の日航ジャンボ123便墜落事件では自衛隊の誤射による123便墜落の疑いが濃厚に存在するが、政府は墜落原因をボーイング機の整備ミスとして着地させた経緯がある。日本政府に原因がありながら、ボーイング社が事実でない責任を押し付けられているとすれば日本政府は米国およびボーイング社に法外な借りを作っていることになる。
123便が墜落した日、自衛隊艦船まつゆきは航行していなかったとの証言が新たに示されたが、証拠が何もない。自衛隊関係者がウソをつく動機は存在するから、客観的な証拠が示される必要がある。ボーイング機100機購入という驚天動地の条項が合意に盛り込まれた点について国会での徹底追及が必要になる。
他方、米国の戦略産業9分野に5,500億ドルの投資を行うという決定も唐突過ぎる。日本政府の保有する外貨準備の大宗を占める外国証券は2025年6月末時点で9,753億ドル。1ドル148円で換算して144兆円。巨額である。
しかし、これとは別に、新たに米国戦略産業9分野に5,500億ドルの投資を行うというのは法外な話。戦略産業9分野は半導体、医薬品、鉄鋼、造船、重要鉱物、航空、エネルギー、自動車、AI。トランプ大統領は利益の9割を米国が得ると述べた。
具体的スキームは明らかでないが、考えられるのは約80兆円の新規投資の財源の1割にあたる8兆円が出資、9割にあたる72兆円が融資。8兆円の出資金のうちの9割に当たる7.2兆円を米国資本が出資し、残りの0.8兆円を日本資本が出資するというものと推察される。最大のポイントは72兆円の融資を日本の金融機関が背負うこと。民間金融機関が動くわけがない。国際協力銀行等の公的金融機関が資金を提供することになるのではないか。
この72兆円が返らぬ資金になる可能性が高い。外貨準備の9,753億ドルの米国証券。これは日本政府が米国政府に9,753億円=144兆円のお金を貸していることを意味するが、米国政府はこの借金を返す考えを有していないと見られる。宗主国米国への上納金=みかじめ料だと認識しているはずだ。
2002年10月から2004年3月にかけて日本の外貨準備が3,659億ドルも急増したことがある。小泉・竹中時代だ。イラク戦争があった。このとき、小泉・竹中政権は米国に3,659億ドル=約40兆円もの上納金を献上したと言える。この法外上納金で小泉・竹中政権は米国の支援を受けた。今回の5,500億ドル対米投資話は日本政府による米国国債購入と類似する米国への上納金と理解するべきものだ。トランプの顔色を窺い、自動車税率を15%にしてもらう代償として巨大なみかじめ料を払う約束をしたと理解できる。
石破内閣を擁護する論調があるが、適正でない。石破内閣は財政政策発動を封殺。維新、国民、立民は政権与党入りへの色気をむき出しにして、そのために、石破内閣打倒を封印している。
高市早苗内閣誕生が悪夢であることは論をまたないが、石破内閣を擁護するべき正当な理由は存在しない。トランプ大統領の高率関税政策は世界経済に下方圧力を与える原因になる。また、極めて高い能力を有するパウエルFRB議長を解任することは米国にとっての大きな損失になる。
トランプ大統領がFRBを仕切ることはFRBが高い信頼を失うことと同義。9月以降にトランプ政権が極めて困難な苦境に転落する可能性が高まりつつある。
<プロフィール>
植草一秀(うえくさ・かずひで)
1960年、東京都生まれ。東京大学経済学部卒。大蔵事務官、京都大学助教授、米スタンフォード大学フーバー研究所客員フェロー、早稲田大学大学院教授などを経て、現在、スリーネーションズリサーチ(株)代表取締役、ガーベラの風(オールジャパン平和と共生)運営委員。事実無根の冤罪事案による人物破壊工作にひるむことなく言論活動を継続。経済金融情勢分析情報誌刊行の傍ら「誰もが笑顔で生きてゆける社会」を実現する『ガーベラ革命』を提唱。人気政治ブログ&メルマガ「植草一秀の『知られざる真実』」で多数の読者を獲得している。1998年日本経済新聞社アナリストランキング・エコノミスト部門第1位。2002年度第23回石橋湛山賞(『現代日本経済政策論』岩波書店)受賞。著書多数。
HP:https://uekusa-tri.co.jp
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