2024年03月30日( 土 )

九州古代史を思う(8)

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日本国の登場

 「旧唐書」に、初めて日本国が登場する。「日本国は倭國の別種なり。その国日辺にあるをもって、故に日本と名をなす。…その国の堺、東西南北各々数千里あり、西界南界はみな大海に至り、東界北界は大山ありて限りをなし、山外は即ち毛人の国なり」と記されている。

 新たに登場した日本国こそが、まぎれもなく本州島を領土にする国と記しているのだ。「随書」までの記述の倭・俀國は島国。日本国は明らかに日本アルプスや関東北部の山地の終点について、日本国の使者、遣唐使などの証言を記したものである。

 中国は独特の中華思想として、自分達こそ世界の中心に位置しており、自国の周りの国や民族は程度の低い者と考え、北は北狄・南は南蛮・東は東夷・西は西戎と、どれも野蛮・夷蛮人扱いし、同じ夷蛮でも北は手の付けられない奴らだが、東はいともおとなしい人種と思われていた。

都督府と太宰府政庁

fukei 中国には風水思考があり、「風」をあやつり、「気」の流れを用いる事により機運を上げるもので、古代より国を興す土地を見つけるための術で、北に山、南に川、東から西に気の流れる平野部がよいとしている。この観点からみると、背振山脈を北に、南に筑後川、東から西に広がる佐賀平野を擁する吉野ヶ里が古代の国づくりの在りようであると考えられる。風水の視点で「太宰府政庁跡・都督府跡」を見てみると、北に四王寺山が連なる宝満山脈、南に三笠川、東と西に広がる平地部と、この福岡に現存する「太宰府政庁・都督府跡地」こそ国を興す土地として適した地形だと分かる。

 九州人にとっては馴染み深い『「宰府」の「都督府」』。大漢和辞典にも、「軍隊を総て率いる太宰の帥の唐の官名」とあり、つまり、太宰府の帥の事を、唐では都督といい、都督府にはその帥が管理する省庁である。

 また、すぐ横には政庁跡が歴然として何ら保護されることなく放置されている。現天皇家に関係あるものは総てにおいて、厳重な管理体制が取られているのに、政庁跡は野ざらしである。これが何を意味するのか、歴然としている。

 いわゆる、太宰府政庁・都督府は、大和朝廷の出先機関ではなく、中国に属する倭奴國の執行機関として、機能していたものと考えられる。周辺には観世音寺があり、古代には五重の搭を持つ壮大な寺院だったと伝えられている。一説によると、奈良法隆寺に建材が移されたという説もある。

 また、江戸時代黒田藩のもと、志賀島で発見された「漢倭奴國」の金印は、なにゆえ志賀島で発見されたのか、地元をよく知る者なら不思議に思うのも当然と思うが、これまた、これ以上、探求しようとしていない。ただ、「ここで発見された」ということだけで現在に至っている。
 私は「筑紫の君、磐井」と、この太宰府政庁跡に九州王朝の繁栄と衰退を如実に表していると確信する。

(つづく)
【古代九州史家 黒木 善弘】

 
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