2024年05月12日( 日 )

伝えられなかった「リアル」~九州北部豪雨・取材の現場から

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土砂に埋まった家

 豪雨から5日後に朝倉市に入り、延べ6日間、約30時間にわたって被災地を取材した。当初に考えていたのは、いかにして被害の大きさを伝えるか、だった。自ずと目は大きな被害状況を探すようになり、写真で伝わるような、たとえば土砂に埋もれた乗用車や崩壊した家屋などを見つけると夢中でシャッターを切った。自衛隊などのマンパワーが投入される、わかりやすい被害状況が減っていくのにつれて、今度は復興のために立ち上がる被災者を探すようになった。つまり、ありのままをそのまま伝えるのではなく、伝えたいものを「探し」そして「選ぶ」のだ。

 それはどの報道機関も同じだっただろう。被害を探し、悲劇を探し、被災者を選ぶ。もちろん、被災まもない時期から立ち上がって前を向こうとする人々の営みは、人間の底力さえ感じさせて美しい。そういった風景は絵になるし記事にもしやすいが、そうすると必然的に、テレビや新聞紙面に登場するのは「災害に負けない」と前を向く、力強い被災者ばかりになってしまう。

 朝倉市に臨時で設置された避難所を取材していたとき、1人の中年男性に声をかけられた。仕事に行く気力もなく、日がな一日横になっているという。被災当時のことを尋ねると、堰を切ったように話し始めた。……家や家財道具を失ったことで、非常に不便な生活を強いられている。とても仕事に行けるような状況ではない。まわりにもそんな人がたくさんいる……真面目で仕事人間だったに違いないその男性は、共感を求めていた。本意ではない現状に対して何か言い訳するような物言いは、前向きな被災者たちが脚光を浴びることで、休むことすら憚られるようになった現状へのいら立ちのようにも感じられた。

 被災者が共感を求めているのならば、本当に伝えるべきだった「リアル」とは何だったのだろう。被災者がふと1人になったときに頭をよぎる、流された家のローンのこと、今後の生活費、あるいは仕事のこと、そして失った家族の思い出。だがこれらは、急にやって来た部外者が土足で立ち入るべきリアルではないはずだ。そうではない、たとえば被災者にそっと寄り添い、共感を呼ぶリアルを見落としてはいなかったか。私は今も、安易な人間ドラマに酔うために、被災者を「探して」しまったことを後悔している。

【九州北部豪雨取材班】

 

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