2024年04月27日( 土 )

シリーズ 側近の目から見た高塚猛(2)~敵にお酢をかければ、『素敵』になります!

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雑誌で「盛岡グランドホテル再建の奇跡」を読んだ

 ――皆さんはいわば「高塚フリーク」と呼んでもいいのではないかと思います。しかし、前回の安田さん、宮田さんのお話では、最初は「歓迎していなかった」、「冷めた見方をしていた」ように感じました。大西さんはいかがでしたか。

 大西 私は新神戸オリエンタルホテルの開業プロジェクトに関わった時に、高塚さんの名前を知りました。同プロジェクトのプランは二転三転しました。そんな時に、雑誌『月刊 ホテル旅館』で、「盛岡グランドホテル再建の奇跡」を読んだのです。「ホテル業界には本当にすごい人がいる!」と思いました。その後、92年にダイエーがリクルートを買収、中内功オーナーがリクルートの会長として高塚氏と会っています。「発想力が豊かで、スピーディに仕事をこなす人物」としてダイエー本社の社員教育の講師としても来て頂きました。

山一證券や拓銀が倒産した日本経済どん底の年です

高塚 猛 氏

 話を福岡に戻します。93年に福岡ドームが開業、95年にシーホークホテル&リゾートが開業して、96年12月に私が着任した時には、お客さんが溢れていました。しかし、経営的には大赤字だったのです。そこで、98年11月には、神戸セントラル開発(新神戸オリエンタルホテルの土地・建物管理)とシーホークホテル&リゾートを合併させるなど、大幅な経営改善を行い、キャッシュフローは黒字にすることができました。自力再生できる力は残っていました。しかし、当時の社会状況も銀行もそれを許してくれませんでした。思い出して下さい、97~98年というのは、バブルが崩壊、山一證券、北海道拓殖銀行、三洋証券などが倒産した日本経済がどん底だった年です。
 キャッシュフローが黒字になっていても、営業利益、経常利益が単年度で黒字にならなければ不良債権と言われた時です。

危機打開には盛岡から高塚氏を呼ぶしか方法がない

 今でも覚えていますが、98年の年末に中内正社長と面談し「いろいろな経営改善、現場改善を実行し、キャッシュフローは黒字になりました。しかし、単年度の営業利益、経常利益は黒字になりません。自力再生の道は残されていますが、それにはもう時間がありません。借入金の総額が現在1,480億円あり、このままでは山一証券や北海道拓殖銀行と同じ事態になります」と申し上げ、「この危機打開には、盛岡から高塚さんを呼ぶしか方法がありません」と提案しました。正社長は年明けにすぐに中内功オーナーに話し、即決了解が得られ、1月7日には高塚さんを呼ぶことが決まりました。その後、高塚さんは2、3回来福され、福岡3点事業の副社長としての正式着任は99年の4月7日になりました。

部屋に戻ったのは深夜2時で、翌朝6時には厨房に

 ――皆さんさまざまな気持ちで、多くは歓迎ムードではなく、高塚さんを迎えます。しかしその後、従業員の多くはなぜ高塚ファンになっていったのでしょうか?

 安田 高塚さんは空港からホテルに到着(当時の高塚氏は役職兼任で、岩手2割、福岡6割、東京2割の生活で、福岡の宿泊先はシーホークホテル)、その日の晩はシーホークホテルの社長と一緒に食事に行かれ9時頃ホテルに戻りました。当然、そのままお休みになるものと思いました。ところが、それから厨房などホテル内をくまなく見て回っているのです。自分の部屋に戻られたのは、深夜2時頃だったと思います。翌朝は6時前には(福岡での睡眠は1日3時間ぐらいでした)、厨房に顔を出して声掛けし、バッシング(お客の食べ終わった皿やグラスなどを下げること)を若い従業員に混じって手伝っているのです。会議もほとんどせず、このような現場で一緒に働く状態が福岡に来てから何日も続きました。そうなると当然、「高塚さんとは何者?」という噂が幹部を含めた従業員に拡がっていきました。

 バッシングなどレストランのホールや厨房で仕事をするので、総じて会話の相手は若い従業員になります。高塚さんは、従業員が「管理職の人たちが現場に来ることは少ないです。もっと私たちの気持ちを理解して欲しい」と話すのを聞くと、「いや、安田さんをはじめ管理職の人たちは、多忙のなかでも、皆さんのことをとても気にかけているよ。褒めていたよ。皆さんから安田さんにもっと話しかけてみたらどうだろうか」などと応えていいました。その会話は私の耳にも届いてきました。決して他人の悪口は言いませんでした。もちろん、立場上、敵も多かったと思いますが、「敵にお酢をかけると、『素敵』になります」などと言われ、ご本人が敵と思っていた人はいなかったのかも知れません。ここまで来ると、だんだん「今まで来た経営者とはちょっと違うぞ!」がホテル内の共通認識となりました。

躊躇なく大鉈を振るって、どんどん悪習を改善する

 並行して、悪習と思われていた部分に、躊躇なく大ナタを振いました。例えば当時、ダイエーからの出向者と現地採用社員との間には、仕事が同じでも、給与について大きな格差がありました。会社の業績や本人の頑張りと関係なく、ダイエー組の給与は高くて、地域採用の人たちは低く抑えられていました。それを、モラルがもっと高まる様に、一気呵成に改革していきます。続いて、ややもすれば、総合力を発揮する妨げになりかねない、ホテル内の部門別会計制度にも手を入れていくことになります(結果的に廃止になった)。

(つづく)
【金木 亮憲】

 
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