2024年04月30日( 火 )

豪雨災害から約1年、いまだ先が見えぬ復興への道のり

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行政対応に不満の声

 「豪雨災害の発生直後は、とにかく市からの情報提供がなく、コンタクトすらなかったため、情報共有や状況把握がまったくできませんでした。朝倉市役所杷木支所が臨時の避難所となり、150名以上が集まったと思います。いろいろと情報が錯綜するなか、大変ありがたかったのが、『グリーンコープ生協ふくおか』による支援でした。迅速な対応で炊き出しまでしていただき、本当に感謝しています」と被災時の状況を語るのは、杷木地区のコミュニティ関係者の70代男性。同地区は、朝倉市のなかでもとくに被害の大きかったエリアで、被災から11カ月を経て復旧もある程度進んでいるようだが、まだ随所には生々しい災害の爪痕が残る。被災直後、もちろん市からも弁当などによる食料支援があったというが、行政とは違う民間ならではの柔軟な支援には、随分と助けられたという。

 「豪雨災害で家を失った住民は現在、仮設住宅やみなし仮設に住んでいますが、2年の期限があり、その後は自活しなければなりません。災害で農地を失った農家の方や、高齢者の方々など、すぐの自活が困難な方に対しては特例措置を講じるなど、行政には何らかの支援策をお願いしたいですね。被災後、杷木地区では多くの住民が出て行き、世帯数が以前の3分の2くらいにまで減少しています。この地区に人が戻ってくるような、住民が希望をもてるような方針を、市には示してほしいと思います」(前出70代男性)。

 同じ杷木地区にある林田仮設団地(48戸)の関係者(60代・男性)も、「朝倉市の支援はかたちだけ。心がこもっていません。役場内で情報共有がなされておらず、市の担当課長も現地には来ませんし、要望がある場合はこちらが役場を訪ねていかねばなりません」と憤りを隠さない。同仮設団地では現在、48世帯101名が暮らしているが、集会所は1カ所あるものの、住民間のコミュニケーションは決して十分とはいえないという。食事は基本的に炊き出しで、各部屋もしくは集会所での飲食となる。実際にここで暮らす60代の女性は、「だいぶ住み慣れてはきたものの、やはり4畳半の部屋は狭く感じます。せめて6畳あれば…。今一番の望みは、仮設住宅を退去した後の住居の確保ですね」と、やや仮設住宅での暮らしに疲れの表情を見せる。

 「住居が全壊でも、行政からの補助金は200万円。一方で、豪雨災害後に物件の価格が高騰しており、とてもではないけれど、仮設団地を出た住民はやっていけません。健康面や福祉・介護などで困っていることに対して支援を行い、被災者に安らぎを与えていくのが、本来、市が行っていくべき行政サービスではないでしょうか。市長に求めるのは、やはり復旧・復興への具体的かつスピーディな対応と、被災者への心のケア。毎月1度でいいから市長に仮設団地へ足を運んでもらい、住民の声を聞いてもらえれば、我々はどれだけ心強いことか。もっと被災者に寄り添ってほしい」と、前出60代男性は行政に対しての率直な意見を聞かせてくれた。

 朝倉市内の別地区のコミュニティの関係者(60代・男性)も、「これから復興計画がどのように進んでいくか、現在の進捗状況はどうなのか―など、そういった情報を必要としているのですが、市との情報交換がまったくないのが実情です。こちらから、何度も何度も住民説明会の開催を要望して、やっと1回だけ行われたくらい。こうした対応は、正直どうかと思いますね」と、市の対応に不満の声を上げる。同地区では、災害後に大勢のボランティアからの助けを受けたほか、東北から義捐金が届くなど、改めて人の心の温かさや絆を感じることが多々あったという。また、災害を機に防災マップや防災マニュアルなどの整備が進むなど、コミュニティとして得るものもあったといい、今では復興について前向きに考えつつある。「私たちの地区は、杷木地区や山間部などに比べると、幸いにして被害は少なかったように思います。助けていただいた多くの方々の恩に報いるためにも、まずは私たちから元気を取り戻し、被災地全体に波及させていけるよう頑張っていきます」と、視線は未来を見据えている。

直接被害や風評被害

 豪雨災害は、住民だけでなく、地域の事業者にもさまざまな被害をもたらした。
 「今回の災害で、設備も商品も深刻なダメージを受けました。収穫量も例年の5分の1程度に落ち込み、売ろうにも売る商品がない状態に。一時はどうなることかと思いました」と話すのは、川茸(スイゼンジノリ)の製造・販売を手がける(資)遠藤金川堂の遠藤淳代表。品切れにより客足は途絶える事態になったというが、被害を知った方から販売会や復興支援イベントへの誘いを受けたという。だが、主力商品が不足していたため、急遽、代替商品を開発・製造して対応した。「収穫を再開できるようになるまでの3カ月間を乗り切れたのは、販売会・復興支援イベントのおかげです。お声をかけてくださった方には、本当に感謝しています」(遠藤代表)。今後、同社では再び例年並みの収穫量を目指すとともに、新商品の開発・販売も視野に入れる。また行政の対応については、「小規模事業者向けの補助金に『災害型』ができて支給のハードルが下がるのと同時に、支給上限額も上がったので助かりました」と感謝の声を上げる。

 「災害で店舗内に土砂が入り込んで商品への被害が出たほか、機械設備にも深刻なダメージを受け、廃棄処分せざるを得なくなりました。再開まで2カ月ほどかかりましたが、この間、のべ約1,000人のボランティアが駆けつけてくれ、いろいろと助けていただきました。感謝してもしきれません」と話すのは、朝倉市内で食事処と菓子屋を営む(株)大成物産の井福勝義代表。同社では被災後は事業規模を縮小し、従業員の解雇もせざるを得なくなったという。「義捐金をいただいたのは大変ありがたかったのですが、それでも被害額や修繕費と比べると、焼け石に水なのが正直なところ。今回のような水害の場合は、地震と違って補助金の内容が充実していないと感じます。行政には、もっとそのあたりの整備をお願いしたいですね」(井福代表)。

 “博多の奥座敷”といわれる風光明媚な「原鶴温泉街」も、豪雨災害により大きな影響を受けた。老舗旅館として知られる「泰泉閣」では、建物内への浸水により一時営業停止を余儀なくされた。また直接的な被害だけでなく、災害による風評被害や交通網の断絶によりキャンセルが相次いで客足が遠のき、災害発生から2~3カ月ほどは各旅館とも苦境に。昨年10月ごろからようやく客足が戻ってきたとはいうが、「まだ豪雨災害前のお客さまの入りには戻っていません。今でも山間部のほうは被害の爪痕が残っており、さらなる災害の発生を警戒してか、とくに梅雨時期の集客は見込めないでしょう。これからも、温泉街が一丸となって頑張っていかなければなりません」(原鶴温泉関係者)。

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 九州北部豪雨の発生から間もなく1年。朝倉市内でも、平野部ではある程度は復旧が進んでいるようにも見えるが、山間部や河川沿いなどでは、まだこれからといった状況。被災地では今なお多くの人が、かつての日常を取り戻すべく奮闘を続けている。

【特別取材班】

 

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