2024年04月27日( 土 )

宮川選手パワハラ騒動における人権問題と法律問題(中)

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青沼隆郎の法律講座 第10回

本論:事件の時系列的分析と問題点

 処分自体は公正公平でなければならず、特定の人物を狙い撃ちしたような偏頗な処分権の行使はもちろん、違法である。そこで問題になるのが、処分手続の端緒である。通常、公正公平性の観点から見れば、理事会への違法行為の告発・告訴が自然な端緒といえる。
 なお、懲戒権者への告発告訴は虚偽であれば当然虚偽告訴罪となる犯罪行為である。

1:本件事件の告発の違法性
 本件処分の端緒となった告発は違法・犯罪である。告発事実は真実であることが必要で、
告発者は疎明資料(証拠)の提出が必要である。後日公開された告発文書における告発事実はすべて伝聞事実および推測事実である。これには証拠の提出は不可能で、これを受理した
理事会は明らかに処分手続の違法があり、登録コーチは結局、漠然とした暴行事実を自白させられたに等しい。このような違法手続であるから、処分対象となった具体的暴行事実はまったく特定確定していない(存在しない)。漠然とした「暴行事実」の自白とその認定である。これでは、当該暴行の具体的な違法性や周辺事情が不明であるから、処分程度の当否が判断不可能である。(ただし、後日テレビ公表された違法画像が事実上、これにとって代わった。違法収集証拠が堂々と違法事実の証明に使われた。滅茶苦茶な法治国家である。)
 そもそも、告発者は登録選手・登録コーチと民事紛争があり、それを告発の動機として掲げていた。その民事紛争も内容は不明で、民事紛争を有利にするための告発であれば、その告発動機においても不純である。とくに、当該民事紛争の示談が成立した後、告発者が本件処分にかかる告発を取り下げないことは極めて異常で理解できない。これでは協会が告発者と結託して最初から処分の口実とするために違法な告発状を受理した、との一部の非難にも理由があることになる。いずれにせよ、告発者が示談成立後、告発状を取り下げないことは不条理であり、協会の処分はそもそもの法的根拠を失っている可能性がある。 明らかに手続的正義は無視され、個人の人権は蹂躙されている。

2:仮処分取下げ理由の不条理
 登録コーチは「暴行事実」を自白したとされる。何時のどのような暴行事実を自白したのだろうか。告発状は伝聞でかつ、具体的な事実の摘示と証拠の提示もない。また、協会は多数の暴行事実の証言を収集したと主張する。そうすると、登録コーチはすべての多数の暴行事実を自白したのだろうか。思い出されるのはある放火犯がやりもしない放火事件を多数自白した事件である。確かに放火犯はいくつかの放火は自らの所為であったが、身に覚えのない放火事件も否認すれば、誠実な反省がない、と非難され糾弾されるため、苦痛から逃れるために嘘の自白をした。自白者にはそもそもことの重大性の理解などなかった。
 登録コーチは当初、処分自体は争わず、処分の程度を争った。しかし、もともと暴行事件の具体的特定がされていないため、処分の程度について争うことは困難である。ここで本来なら弁護人も協会関係者も処分が違法であることに気付くべきであった。その後は抽象的「暴行」のみが1人歩きしてかんかんがくがくの議論と報道がなされた。そんな折、登録コーチの違法画像がスクープ公開され、一気に登録コーチの暴行は違法画像の暴行であると世間の人々は勝手に思い込んだ。これですべての違法手続は闇に葬られ、雲散霧消した。 公表画像が明白な違法収集証拠なだけに、その証明力が公然と認められ有罪認定されたことに、筆者は衝撃を受けた。
 さて、登録コーチは仮処分申請を取り下げる理由として、暴行の事実を認めた者が、処分の不当性(不当な重罰性)を主張することは反省がないとされることで、登録選手の求める練習環境に一刻も早く戻るためには法的争いを避け、反省を示すことだ、と説明した。
 登録コーチの弁護人も登録選手の弁護人も同1人物である。登録選手の主たる主張は、
指導者である登録コーチの資格剥奪処分は事実上、登録選手の練習や技術向上を不可能にするため、その意味でも不当に重罰処分である、という主張である。
 登録コーチの仮処分申請の取り下げは、登録選手の梯子をはずすことにならないか。  こんなみやすい道理を弁護人は理解しなかった。暴行を認めることと、その暴行に対する処分の相当性を争うことはまったく次元が異なる。本件では登録コーチは暴行の認識、いわんや加害の意識はない。登録コーチの行為は法的には「有形力の行使」であり、登録コーチ自身は指導法として「許される」と信じていたもので、「暴行」と自白することは、完全にその真意に反する。少なくとも、法的意味において、「暴行の自白」ではない。正確にいえば、「有形力行使の自白」である。しかし、法的知識のない素人には「有形力の行使」と「暴行」の違いなどわかるはずもなく、有形力の行使を認める意思で、暴行まで認めた結果となった。 弁護人は何のための弁護人か。専門知識をここで使わないでどこで使うというのか。
 暴行を自白した人が暴行の自白を争うことが、「反省がない」と非難されることだろうか。
「反省がない」という前提には暴行が真実という論理的前提がある。暴行が真実と証明される前に真実を前提にした立論は不当な根拠のない論理として排斥される。暴行を自白した人が暴行の事実を争うことには当然、理由がある。その理由がないときでも、自白者への非難は矛盾の言動への非難に止まる。暴行が真実であるかどうかは自白以外には証明されていないからである。自白の意味の重要性を知らないで嘘の自白をした放火犯をどうして非難できるというのか。日本の司法において、自白の重要性は「不利益な事実の自白をする筈がない」という裁判官のドグマが長く支配してきた結果である。自白が不利益であると本当に知っている人は以外と少ないのである。誠実さを示すこと、恭順の意を示すことで、罪を軽くできるなら、罪を軽くできると誤解するなら、自白は容易に実現する。無論、歴史的には利益誘導による誤解による自白も多数記録が残っている。

(つづく)

<プロフィール>
青沼 隆郎(あおぬま・たかお)

福岡県大牟田市出身。東京大学法学士。長年、医療機関で法務責任者を務め、数多くの医療訴訟を経験。医療関連の法務業務を受託する小六研究所の代表を務める。

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