2024年05月04日( 土 )

福沢諭吉と現代(1)

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 福沢諭吉は、私たちが一万円札上で毎日のように見る存在として知られている。では、なぜ彼が「万札」に選ばれたのか。
 それを知るには、彼の前に一万円札の絵となっていたのが誰であったかを思い出せばよい。聖徳太子である。聖徳太子ではあまりにも古すぎるから、福沢に替えられたのだ。
 大半の人には、日本史における聖徳太子の存在意義をわかっていないだろう。では、福沢の存在意義はわかっているのだろうか。
 簡単にいえば、福沢は聖徳太子の近代版である。この2人を比べると、思いのほか類似点が見つかる。

 歴史学者は聖徳太子が実在したかどうかはわからないという。歴史というものは、歴史学者のいう「歴史」が唯一のものではない。
 事実を集積させれば歴史になるのだろうか。歴史とは記憶の問題であろう。ある民族の集団の記憶のなかに存在して初めて実在とされるのであって、そうでない事実は実在ですらない。

 聖徳太子は古代から現代に至るまで、日本人の記憶のなかに存在してきた。今ではその存在が忘れ去られた感があるが、少しでも日本史を古代から振り返るなら、その存在は抜群の輝きをもって浮かび上がってくるはずだ。
聖徳太子は、ほぼ「未開」だった列島の共同体文化を「文明」の水準に引き上げた人と言ってよい。海の向こうではものすごい文字文明が発達し、そこには仏教という高度な宗教が浸透しているというのに、こちら側はあいかわらず部族どうしの醜い争いばかり。そういう現状を見るにつけ、彼は文化革命を起こす必要を感じ、それを実行した。

 日本には「改革はあっても革命はない」といわれるが、それは政治上の話であって、聖徳太子の行ったことは、どう見ても革命である。
 『サピエンス全史』の著者Y・N・ハラリは、言語の創出によって思考能力が格段に進歩した「認知革命」、土地を耕すことで食文化を大きく変えた「農業革命」、そして近代科学によって環境世界を大きく変えることになった「科学革命」、この3つを人類史の一大転換期ととらえている。これを日本史に応用するなら、稲作が入ったことで経済システムが大きく変わった「弥生革命」、漢字文明が仏教とともに入ってきたことで世界観が大きく変わった「仏教革命」、西洋の近代文明が科学とともに入ったことで再び世界観が変わった「科学革命」の三段階を考えることができよう。

 聖徳太子は日本に「仏教革命」をもたらし、福沢諭吉は「科学革命」をもたらした。これが、福沢が太子に(一万円札上で)とって替る理由となる。2人は日本文化の質を大きく変えたという点で共通し、同列に並べることができるのだ。もっとも、それぞれが行った革命がどこまで成功したかとなると、話は別であるが。

 聖徳太子から福沢諭吉へ、実は一本の線が貫いている。か細くはあるが、仏教という線である。
 一見して無宗教に見える福沢だが、彼の家は熱心な浄土真宗。彼自身は蓮如の「御文章」をモデルにした啓蒙の文体で成功したが、心の奥では親鸞を尊敬していた。そしてその親鸞は、日本に仏教をもたらした聖徳太子を心底から尊敬していたのである。
 つまり、太子から親鸞、親鸞から蓮如、蓮如から福沢。見えない糸が続いており、そこには常にある種の革命への志向がのぞく。

 さて、福沢が計画し行った革命の内容は何だったのか。その前に、聖徳太子の革命を整理しておこう。
 太子が仏教を導入し、憲法を創案し、一種の官僚システムを確立することで「文明国」の骨格を構築したことは、多くの歴史家も承認するところである。ここで重要なのは「文明」という言葉であり、まさに太子は、仏教によって列島を「未開」から「文明」へと飛躍させようとしたのだ。

 太子にとって、彼の同胞たちの世界はどうあっても克服されねばならないものであった。これでは海の向こうの世界と対等にはやっていけない、そういう思いがあった。彼にとって、文化革命は必至だった。列島は部族社会であり続けてはならず、1つの国とならねばならない。しかも、「文明」の国とならねばならなかった。

 仏教がどうして文明なのか。現今の堕落した仏教しか知らない多くの日本人には、こうしたこともわからなくなっている。ほかならぬ、僧侶の多くがそれを知らない。

 仏教は宗教でありながら、哲学であり、心理学である。それはいかなる状況においても心的状態を安定させるための方式をもち、信仰心に頼るのではなく、自己鍛錬をする道なのである。それによって、それまで感覚世界に埋没していた人間が豁然と目覚める。精神世界に目覚める。生き方が根本的に変わり、周囲に対して独立心をもつようになり、慈悲の心も生まれる。要するに、「生まれかわる」のである。

 仏教が入る前の列島では、死は忌むべき穢れでしかなかった。穢れは浄められねばならなかったが、それ以上に忌み嫌われた。ところが、その死が仏教によってはじめて死者の霊として救われる対象になった(渡辺照宏「日本の仏教」)。これは大きい変化ではなかったのか。

(つづく)
【大嶋 仁】

<プロフィール>
大嶋 仁(おおしま・ひとし)

1948年鎌倉市生まれ。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。 1975年東京大学文学部倫理学科卒業 1980年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇にたった後、1995年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し、名誉教授に。 

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