
自分には教養がない、ましてや哲学の本、宗教の本なんて読んだことがない。学生時代もあまり勉強していなかったので、ボキャブラリーも不足している。
だから、塾長の講話録から抜き出して、そのまま話をする。それでいいのです。
皆さまだけではありません。私もかつてはそうでした。松下幸之助さんから頂戴したもの、安岡正篤さんや中村天風さんから借用したものを使わせていただきました。最初は借り物でも構いません。
それを繰り返し説いているうちに、やがて自分のものとして、フィロソフィを語ることができるようになるはずです。
第二に、フィロソフィを説く経営者に求められることは、率先垂範自ら実践に努めることです。
いかにすばらしい理念、フィロソフィを掲げて、社長が毎日のように説いて回ったところで、社長自身の実践が伴っていなければ、従業員は付け焼き刃だと、すぐそれを見抜きます。もし、フィロソフィを一生懸命伝えているつもりなのに、自分の思いが浸透していない、逆に不信感をもたれているとすれば、その経営者の生きる姿勢が、従業員から尊敬されるレベルにまで達していないということです。
よく一般の企業でも、社長室に社是や社訓を書いた額が掲げられています。ところが往々にして、その社長は、書いてあることとまったく違ったことを平気でやっているケースがあります。それでは、いくら高邁なフィロソフィを日頃説かれても、まったく共鳴することはできないはずです。
「社長は、言っていることとやっていることが全然違う。朝礼では『みんな一生懸命に頑張ってほしい。私も皆さまの先頭に立って、皆さまの幸せのために、誰にも負けない努力をするつもりだ』と言いながら、昼からろくに仕事もせずに遊びほうけている。あんな社長だから、うちの会社はダメになってしまうんだ」
そのように従業員から言われている社長は、決して少なくないだろうと思います。単に従業員を駆り立てるためだけにフィロソフィを説くのではなく、経営者である自分自身が誰よりも率先垂範、フィロソフィの実践に努めることが何よりも大切です。
経営者本人が常に自らに厳しく規範を課し、人格を高めようとし続ける姿を示すならば、それを見た従業員も自ずからフィロソフィの実践に努めようとするはずです。
「社長がそういう立派な考え方をもち、その実践に努めているから、我々従業員は共鳴もするし尊敬もする、だから社長といっしょにフィロソフィの実践に努め、会社発展に尽くしていこう」と、従業員が自然と考えるようにしていかなければなりません。
そのように経営者の心に1点のやましい気持ちもなく、真摯にフィロソフィの実践に努めているからこそ、時には従業員に何の遠慮をすることなく、厳しい言葉をかけることもできるようになります。
実際に私は、いい加減な仕事をしている従業員に対しては、次のようにいうことができました。
「私はあなたも含めた全従業員を幸せにするために、朝は君たちよりも早く出てきて、開発から製造、営業まで見て、いつ寝たかわからないぐらいに必死に頑張っている。それなのに、君はそんないい加減な働きぶりでどうするのだ。仲間のためにも、自分の家族のためにも、そして自分のためにも、一生懸命働いてもらわなくては困る」。
そのようによく叱ったものです。
(つづく)