2024年03月30日( 土 )

人間に死を選ぶ自由は存在しないのだろうか(後)

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大さんのシニアリポート第80回

 日本では安楽死も尊厳死も法制化されていない。安楽死が認められている国は、オランダ、スイス、ベルギー、ルクセンブルグ、アメリカ(ニューメキシコ、カリフォルニア、ワシントン、モンタナ、バーモント、そしてオレゴンの各州)のみ。日本尊厳死協会発行のカードに「延命治療拒否」と記入しても、エンディングノートや遺言状にその旨を記入しても、担当医が殺人罪や自殺幇助罪などに問われては尻込みするのが現状だ。

 ここで再び(第68回「気になる死に方」)の「西部邁(評論家)の死に方」を再検証してみたい。西部は佐伯の恩師でもある。西部は2018年1月、多摩川への入水自殺と報じられた。が、西部信奉者のふたりによる「自殺幇助」に変わった。西部は自死についても、思想家らしい独自の考え方を示している。彼の遺稿となった『保守の遺言』(平凡社新書 2018年2月27日)のなかで、こう指摘している。

 「極端な例を挙げれば、オツムが痴呆状態に入ったままで、あるいは糞尿垂れ流しのままで死期に近づいている自分の姿について、『今此処』の心身が健全(といってよい)状態にあっても、何ほどかの予測・予想・想像をもってしまう。

 要するに、過去の経験に基づいて形成される未来への展望が現在の自己の生にかんする意味づけに、強かれ弱かれ、影響を与えてしまうのだ。で、極端な場合、そんな種類の死が間近に待っていると強く展望されるなら、今のうちに自裁してしまおうと決断し、そのための準備をし、そしてその決意を実行する、ということになって何の不思議もない。というより、そうした精神における決断性を具体的にまで固めたとき、自分の現在の生が晴れやかになって、自裁の瞬間まで明るい気分でおれるということになるのではないか」と明言している。

 「あとがき」に、「すべて終わった。ということは、自分の外部に存在しているのみならず内部にも多少とも食い込んでくる『状況』というものをほとんどすべて抹消するのに成功しえたということで、これでやっと『病院死を拒けて自裁死を探る』態勢が完了したということである」と述べている。

 当時、西部は手足が不自由で「自裁」すらままならず、結局「幇助自裁」でこの世を去った。「『病院死を拒けて自裁死を探る』態勢が完了した」と結論づけているが、身勝手であろう。ただ、西部の自裁は「幇助」なしでは成り立たなかった。信奉者をふたり罪人にしてまで自裁しなくてはならなかったのは、西部の思想家としてのプライド(自裁するかたち、格好)だったのだろうか。

 最近、心肺停止になった際に、家族から119番通報して、駆けつけた救急隊に蘇生措置拒否を申し出るケースが増えているという。「都市部の消防本部の25%が条件付きで蘇生中止を認めている」(「朝日新聞」2019年6月5日)といい、全国的に蘇生中止容認の広がりを見せているという。こちらは、救急搬送時、患者本人の意識がなくとも、事前に家族などが本人の意思を確認していれば、「消極的安楽死」(終末期にある患者に、積極的な延命治療をしない)に分類可能なのではないかと思う。

 基本的に救急車を呼ぶという行為は、「総務省消防庁の基準は生命に危険があれば応急措置を行うと規定し、消防法は蘇生中止を想定していない」(同)である。家族は、かかり付け医と本人と「蘇生中止」を決めているにもかかわらず、条件反射的に(持ち直すかもしれないと)119番してしまうことがあり、到着した救急搬送隊と揉めることが少なくないという。

 さまざまな死に方=「積極的・消極的安楽死」「幇助自裁」「緩慢な自殺」…、死はさまざまなかたちがあるように見えるが、死に方についてはいくつかに分類可能だ。ただ、「(自分の意思で)死を選ぶ」選択肢は限りなく少ない。「生き方は(医学の進歩のもと)徹底的に追求されるが、死に方は議論の埒外に置かれている」ことに正直疑問を感じる。

(了)

<プロフィール>
大山眞人(おおやま まひと)

 1944年山形市生まれ。早大卒。出版社勤務ののち、ノンフィクション作家。主な著作に、『S病院老人病棟の仲間たち』『取締役宝くじ部長』(文藝春秋)『老いてこそ二人で生きたい』『夢のある「終の棲家」を作りたい』(大和書房)『退学者ゼロ高校 須郷昌徳の「これが教育たい!」』(河出書房新社)『克って勝つー田村亮子を育てた男』(自由現代社)『取締役総務部長 奈良坂龍平』(讀賣新聞社)『悪徳商法』(文春新書)『団地が死んでいく』(平凡社新書)『騙されたがる人たち』(近著・講談社)など。

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