2024年04月27日( 土 )

若手起業家の育成に努めた正真正銘の「エンジェル」~オムロンの創業者、立石一真氏(後)

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 エンジェルとは、創業間もないベンチャー企業への資金提供と経営アドバイスを行う個人投資家のこと。今回は正真正銘のエンジェルといえる人物を取り上げよう。オムロンの創業者、立石一真氏である。

永守氏が「最も尊敬する人」は立石一真氏

 永守氏が今でも心の中にしまっている大事な思い出がある。工場をしばしば訪れた立石氏は、孫ほど年が違う永守氏と、モーター技術の将来について、時間が経つのも忘れて語り合ったことだ。
 日本経済新聞(2011年4月16日付)のインタビューで、永守氏は立石氏について、こう語っている。

 「若いころ教えを受けたオムロンの創業者の立石一真さんは『頑張りなさい』なんて甘いことは言わない。『私と同じで、貴方の行く道には深い川や険しい山がある。自力で越えられなければ、それだけの器ということや』」
 「ある時『では、うちの下請けやるか』と言ってくれたので、ぐらっときたが、『しかしあんた、下請けはやらんといのが社是やったな』の一言で、ハッと我に返った。立石さんは一番尊敬する人や」。

 立石氏の人を見る眼は確かだった。永守氏が率いる日本電産は、パソコンなどに使われる精密小型モーターで世界トップシェアを誇るまでに急成長を遂げていく。

歴史上の決定的な出会い

 歴史には、決定的な出会いというものがある。宝暦13年(1763)5月25日、1人の年老いた学者と、のちにその弟子になる年若い学者との運命的な出会いがあった。所は、伊勢参りの人並みで賑わう伊勢国松坂の新上屋という旅館の夜の一室であった。
 若い学者は、国学という同じ学問の大先輩と感動の一夜を語り明かし、一つの使命感に似たものを受け継いだ。時に賀茂真淵67歳、本居宣長34歳であった。

 寛政10年(1798)6月、宣長はついに『古事記伝』全44巻を完成した。35歳から始めて69歳まで、実に34年たっていた。
 国学の大成者となった本居宣長は、その自画像に、こう書き添えた。
   敷島の大和心を人問はば
     朝日に匂う山桜花
 人との出会いが、2人の人間の心を結び、1人の人間の生き方を決定する。本居宣長の松坂の一夜として、歴史に刻まれている。

永守氏は、立石氏から「答えは自分で考えろ」と指導された

 永守氏にとって、立石一真氏との出会いが、その後の生き方を決定づけたことでは、本居宣長と賀茂真淵の出会いと共通するものがある。
 立石氏は生涯、創意工夫が切り開く、新しい技術に興味津々だった。京都から世界的なハイテク企業が生まれたのは、立石氏の功績といっても褒め過ぎにはならないだろう。

 立石氏のエンジェルとして優れている点は、経営について指導していることだ。永守氏は日本経済新聞電子版に連載した「経営者ブログ」(12年1月18日付)で、こう綴った。

 〈日本電産がまだ駆け出しのベンチャー企業だったころ、何か困難にぶつかると、経営者として最も尊敬し私淑していた、オムロン創業者の故立石一真さんによく相談に行った。私が「こういう時はどうすればいいでしょうか」と深刻な顔でたずねても、立石さんは「私も同じ経験をしましたよ」と言ってくれたものの、なかなか答えは教えてくれなかった。

 よく「答えは自分で考えなさい。私が言えば、あなたのものにならないから」と指導されたものだ。何かやってみて失敗しないようでは、大きな会社は作れないと言われた。

 私が「こうしたいのですが、どう思いますか」と意見を聞いた時だけ、「そうですか。それはいいんじゃないでしょうか」というように方向性を示唆してくれた〉

 昨今の投資家は、早期に回収するため5年で上場せよと口やましく言うが、立石氏のように経営の相談に乗ることはまずない。ベンチャー企業を育成することに情熱を注いだ立石氏は正真正銘のエンジェルといえる。社名を立石電機から地名の御室にちなんだオムロンに変更した翌年の1991年1月12日、90歳で亡くなった。

 「コロナウイルス後」は、新しい産業を立ち上げるベンチャー起業家の出番だ。彼らを支援するためには、立石一真氏のような経営の相談に乗れるエンジェルが求められる。

(了)

【森村 和男】

(前)

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