2024年04月20日( 土 )

【凡学一生のやさしい法律学】関電責任取締役提訴事件(1)概論

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 関電事件は究極の国家犯罪の完成形である。法律犯罪国家における利権構造の雛形といえる本件事件は、日本は悪徳法律家が支配あるいは跳梁跋扈する法匪国家であることを示した。

 これは法律を「合法的」に制定して、実質的には不法国家を設営する香港問題の中華人民共和国(中国)や拉致問題で人道を無視する北朝鮮、北方領土問題で食言を繰り返すロシア共和国などと本質は同じである。
 これを端的に示すマジックワードが「法治国家」である。「法による支配」の同義語として誕生した「法治国家」概念であるが、それはあくまで定義概念の世界で、現実の国家に、現実に憲法以下の体系的法令が整備され存在していても、実質的には優越的支配者による「解釈」や、優越的支配者にのみ理解できる「難解法律」で国民大衆が騙される結果、実質的社会不正が存在する。この社会的不正の特徴は国民が騙されていることを国民が知らないことである。しかもそれは国家が設営する「公教育」の微妙な結果でもある。

 日本は君主的封建国家である徳川政権から君主政権である天皇主権国家である明治政権に移行した。君主制である本質は何も変わらなかったが、これを明治「維新」と表現するためには、国民は何が「維新」されたのかをしっかり玩味すべきである。その際、日本に欧米の大量の「憲法以下の法律群」が輸入された。つまり、日本版「法治国家」が始まった。この初めて目にする舶来法令の解釈運用専門家の養成学校として国営の大学、つまり「東京大学」が誕生したことも歴史的事実である。官営大学に負けじと次々に設立されたのが明治時代に起源を持つ日本の私立大学、有名法科大学である現在の有名私立大学群である。
 大学の乱立競争こそが、いまにつながる「難解法律」による利権獲得競争に他ならない。高学歴の法律専門家が国家の高級官僚となる仕組み(高文試験から甲種公務員試験・司法試験)こそ、中国の歴史的専売特許である「科挙」そのものであることを日本の教育では決して教えない。日本の教育内容は結果として「科挙」に合格するための試験科目となっている。その試験科目のなかでもっとも似非学問であるのが法律学に外ならない。

 好々爺は後世への遺言として言いたい。「青年よ、決して法律家だけは志すなよ」と。日本の法律学がその誕生の歴史から見ても政権・利権争いの道具で目的遂行のための詭弁学であったことを理解しなければならない。

 日本版「法治国」が誕生して百数十年、ひたすら官僚は利権獲得のあらゆる腐敗構造を日本全国に蔓延させた。これが、地方自治体における国家そっくりの利権構造、世にいう「天下り」構造である。すべて法律に基づいて設立された、退職後の公務員が就職する第2の職場である「公益法人」は無数にある。公益法人の取引先は税金を使う国や地方公共団体であるから、公益法人は絶対に倒産しない法人である。

 そして、純然たる民営会社である(株)の形態をもった、実質「公益団体」である国家独占事業の電気事業の10大巨人企業の1つ、関西電力「(株)」で露見したのが、関電収賄事件に他ならない。国家独占事業である電力事業、それからもたらされる税金に等しい公共電気料金による莫大な利益を1私人の立場に変身した経営者が自由に裁量支配できる「株式会社」にしたことが国家犯罪の究極の形態に他ならない。

 長年、関電に「天下った」高級官僚、法律用心棒として碌を食んだ「やめ検」らが今後もこの莫大な利権の構造の永続安泰化を図って考案したのが、少数の取締役らの「トカゲの尻尾きり」に他ならない。「法律専門家による結論」とのうたい文句には失笑を禁じえないが、国民は、どうせ、責任追及は曖昧にされるのが定石であることを原子力発電所事故の東電事件で見せ付けられてきた。民事事件での提訴、しかも株主代表訴訟ではなく、会社固有の判断による形態の責任追及訴訟は二重にも三重にも不可解不明な部分を内在する。

 筆者は多数の楽天的な国民と異なり、裁判は長期化し、国民の大多数が忘れたころに会社敗訴、つまり、尻尾にさえも責任を認めない判決で終わると見ている。なぜか。それは最大の株主、否、国民を代理して特典独占営利企業の監督管理責任を負っていた経産省の責任問題が再燃しないよう、同じく官僚である裁判官が忖度することが必定だからである。これにより、今後、裁判所退職者も関電に第2の就職(天下り)をすることになるのだろう。

 今回、永年続けられてきた不正行為、本来なら公務員として重い賄賂罪の罪を負担すべき、実質的公務員らの長年の犯罪を、せいぜい民事的な責任に過ぎない株式会社法の取締役の善管注意義務違反の責任、それも会社損害の賠償責任という財産上の損失問題にすり替えたもの、矮小化したものが、今回の少数取締役の責任追及訴訟に他ならない。これほどすべての巨悪を単なる株式会社の取締役の民事責任にすり替えたケースは、今後も2度と現れない国民騙しの壮大な茶番劇であることはたしかである。

 なお、支配とは国民生活において優越的地位を占めること、社会的地位が高いこと、経済的地位が高いこと、大きな財産を保有することなどがその具体的属性である。
 当然、法匪でなくとも、正当な社会活動や沿革などで優越的地位にある人も多数おり、とくに経済的優位性については法匪の特徴的属性という意味はない。むしろ、法匪の人生目標が個人的資産の獲得である当然の結果という意味である。

 同じ会社犯罪でもゴーンは逮捕され刑事罰を訴求された。はるかに組織的で巨額で、かつ永年にわたり、経産省の管理監督下にある許認可企業における犯罪が民事責任の損害責任だけにすりかえられた背景に「ヤメ検」の存在があること、ゴーン事件でも司法取引に「ヤメ検」が大きく関与していることを国民は見落としてはならない。

 請求損害額は関電の取引形態から見て、「評価」損害額となる。利用者・消費者が不払い行動に出て収入が減少した具体的なものでなく、かつ、個々の取引業者との価格が不当に高額であったと認定した結果ではない。このような何ら具体的根拠のない損害額の認定に始まる茶番劇に国民・マスコミも騙されてはいけない。まともな裁判官であれば、会社の損害額の認定そのものを認めない。そんな馬鹿げた提訴であることはたしかである。

(つづく)

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