2024年04月26日( 金 )

歴史・交通・人をつなぐ結節点~海峡都市下関市のこれから(3)

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関門海峡に面した港湾都市として発展

 終戦後の49年11月に、下関に本社を置いていた大洋漁業(現・マルハニチロ(株))が母体となり、プロ野球団「まるは球団」(後の大洋ホエールズ、現・横浜DeNAベイスターズ)が創設。それから52年までのわずかなシーズンだが、下関には同地を本拠地とするプロ野球団が存在していた。

 58年3月には、世界初の海底国道トンネルである「関門国道トンネル」が開通した。同トンネルは2層構造になっており、国道2号が通る車道だけでなく、徒歩で通行できる人道トンネルを併設。開通当時は「本州から九州まで歩いてわたれる海底トンネル」として話題になったという。

 67年3月に、長府の臨海部の埋立地で中国電力の石炭・石油火力発電所である「下関発電所」(1号機)が運転を開始した。同埋立地はもともと1924年から31年にかけての長府海岸埋立工事にともなって造成された場所で、当初は「長府野球場」や「長府楽園地」などのレジャー施設が多く存在していた。その後、軍需産業強化のためにレジャー施設の跡地に神戸製鋼所長府工場が開業すると、戦時中は主に航空機用材料を生産。
 終戦後は民需生産に変わり、アルミニウム合金や銅製品などが製造されるようになった。その後、臨海部の埋立地が拡充されると、前述の下関発電所を始め、周辺には工場などの企業誘致が進んだ結果、市内有数の工業団地が形成されている。

 70年6月には、下関と韓国・釜山とを結ぶ「関釜フェリー」が就航。戦後途絶えていた下関と韓国・釜山間の海上連絡が25年ぶりに結ばれ、以降は日韓の共同運航により、夜行便が毎日1往復している。

 73年11月には関門海峡の最狭部を結ぶ海上橋として「関門橋」が開通した。同橋は下関ICと門司港IC間の「関門自動車道」に架かる高速道路専用の橋で、開通当時は北九州市の「若戸大橋」を抜いて日本および東洋でも最長の吊り橋だった。また、75年3月には山陽新幹線の岡山~博多間の開業に合わせて、「新関門トンネル」が開通。それにともない、「長門一ノ宮駅」を改称するかたちで、市内における新幹線停車駅として「新下関駅」が開業した。こうして関門海峡を渡る陸路は、2本の鉄道トンネルと1本の国道トンネル、そして1本の橋梁が整備され、現在に至るまで4路線で本州と九州をつないでいる。

下関駅前の複合商業施設「シーモール下関」

 77年10月には下関駅前に複合商業施設「シーモール下関」が開業した。同施設は国鉄下関駅の貨物ヤードのうち駅舎に近いエリアの一区画における再開発事業によって誕生したもので、下関大丸とダイエーの2つの核店舗と、200店超の専門店とで構成され、当時としては西日本最大規模とされた。開業後は数度の改装を経て、現在は大丸下関店(旧・下関大丸)を核店舗に、シネマコンプレックスや結婚式場、専門店街からなる複合型ショッピングセンターとなっている。

 96年8月には、会議・展示施設「山口県国際総合センター」(通称:海峡メッセ下関)が開業した。同施設は、旧国鉄貨物ヤード(関門連絡船貨車航送場)跡地を対象とした再開発事業「海峡あいらんど21」計画の一環として開発されたもので、地上10階のオフィスビル「国際貿易ビル」、地上4階のイベントホール・展示見本市会場「アリーナ」、展望塔「海峡ゆめタワー」などで構成される。なかでも3層からなる球状の展望室を備えた高さ153m(展望室143m)の海峡ゆめタワーは、関門海峡の下関側のランドマークとして存在感を放っている。

 2001年4月にはウォーターフロントの再開発事業の一環として、「下関市立しものせき水族館」(愛称:海響館)や「唐戸市場」が移転・開業したほか、翌02年4月には海響館と唐戸市場に挟まれた場所にフィッシャーマンズワーフ「カモンワーフ」がオープン。これら3施設は木製デッキの遊歩道「ボードデッキ」でつながっており、唐戸地区を中心としたウォーターフロントエリアが新たな観光名所となった。今では対岸にある北九州市の「門司港レトロ地区」と併せた周遊ルートとして、多くの観光客で賑わっている。

 そして05年2月、いわゆる“平成の大合併”によって旧下関市に4町(菊川町、豊田町、豊浦町、豊北町)が合併。現在の下関市が誕生し、今日に至っている。

(つづく)

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