2024年04月23日( 火 )

歴史・交通・人をつなぐ結節点~海峡都市下関市のこれから(2)

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交通の要衝として軍事の重要拠点として

JR下関駅

 1901年5月には山陽鉄道が延伸し、その終着駅として「馬関駅」(ばかんえき)が開業。翌02年6月に赤間関市が現在の「下関市」に改称したのにともない、馬関駅も下関駅へと改称した。05年9月には山陽鉄道が「関釜連絡船」を就航。下関は朝鮮半島や中国大陸への玄関口として活況を呈し、発展を遂げていった。

 また、42年7月には、世界初の海底鉄道トンネルである「関門鉄道トンネル」が開通した。もともと関門海峡の横断には、線路を敷設した船に貨物列車を載せて運ぶかたちの「関門連絡船」が使われていたが、船への乗換・積替の手間を省いて輸送力を増強するため海底トンネルを掘削する計画がもち上がり、36年9月に着工。42年7月に下り線が開通し、44年8月には上り線も開通した。こうして、東京から鹿児島までが鉄道によって直結され、輸送力の大幅な増強に寄与した。その一方で、関門連絡船の利用は激減。トンネル開通後は旅客輸送のみ継続していたが、これも64年10月に廃止となっている。

 こうして陸と海における交通の要衝として重宝された下関であったが、同時に国土防衛上の重要な拠点でもあった。明治期から第二次世界大戦の終戦までは、下関から門司に至る関門海峡沿岸一帯が大日本帝国陸軍の「下関要塞」に指定。西日本最大の要塞地帯として対艦射撃用や陸戦用の砲台が多く配備され、軍事上の重要機密として一帯の写真撮影や地図作成などが厳しく制限された。現在も下関および対岸の門司・小倉の各所には、当時の標柱や砲台跡など要塞地帯の遺構が残されている。

 こうした戦略上の重要拠点としての位置づけから、大戦末期には米軍によって下関市街地への2度にわたる空襲が行われたほか、海上を封鎖して日本本土への食料輸送網を断ち切る「飢餓作戦」の一環として、B-29による機雷の大量投下が行われた。日本全国の港湾に投下された1万発以上の機雷のうちおよそ半数にあたる約5,000発が関門海峡に投下されたとされ、これにより下関の港湾機能は麻痺。機雷の掃海作業は終戦後の60年代まで続けられたほか、現在でも関門海峡の浚渫工事などの際に機雷が見つかることがあり、いまだ多くの不発弾が眠っていると推定されている。

 なお、終戦後に山口県内における引揚港として当初は下関港が指定されたものの、前述の通り関門海峡には多数の機雷が残されていたことから航行が危険と判断され、その代わりとして長門市の仙崎港が引揚港に指定された。その後、関門海峡の掃海作業とともに下関港では修築工事を進め、51年9月に下関港が特定重要港湾(現・国際拠点港湾)に指定されたほか、同年10月には下関漁港が特定第3種漁港に指定。戦後も下関市は、これまでのように港湾都市としての発展を遂げていくことになる。

(つづく)

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