2024年04月25日( 木 )

内藤工務店の内藤建三社長を偲ぶ~企業価値40億円を積み上げた経営者(3)

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 (株)内藤工務店の内藤建三社長が10月1日に逝去した。75歳だった。葬儀は3日、しめやかに執り行われた。故人・建三氏は1978年3月に初代・内藤正治社長の後を受け継ぎ、陣頭指揮を執ってきた。32歳から75歳まで最前線を走ってきたのである。
 建三氏の経営の特徴はトップセールス力であろう(詳細については後述する)。建三氏はその努力の結果、地元ゼネコン業界の中堅として内藤工務店の地位を確立させた。

 建三氏は一見すると、頑丈な体格を有する印象だが、近年は白血病に侵され、ハードな治療を余儀なくされていたという。今春からは、九州大学病院で入退院を繰り返していた。寿命が長い現代における75歳での逝去は「短い人生だ」と惜しまれる。本人もやり残していたことがまだたくさんあったはずである。

デフレに苦しまされる

(株)内藤工務店 内藤 建三 社長

 受注量はある程度確保できたが、国、地方自治体は入札制度を推し進めた。従来の「疑惑の談合」が糾弾され。世の中の悪の見本にされていたからだ。官需の赤字入札さえも当然という風潮がはびこった。どの企業も採算割れ(公共事業ですら)を強要された。このデフレ圧迫は小泉政権(2001年4月から06年9月)時代にピークを迎えた。後述する内藤工務店20年の業績推移をみれば明瞭である。01年4月期から06年4月期の粗利推移では10.20%から8.70%と低迷している。

 しかし、このデフレ地獄が後日訪れる「栄光の時代」の基盤になったのも事実である。まずは建設業者の廃業が続出した。それにともなって業界の職人数が激減したのである。腕に覚えのある職人階層において「飯が食えない」という非常事態は社会不安を招いてしまう。業者と職人が激減してしまえば、表現を換えると業界の施工能力が大幅に落ちたということになる(業界全体の施工力が3分の2程度に減少)。

 10年以降、「職人不足」が顕在化するようになった。セールス力優先の時代から施工力が求められる時代となったのである(職人を確保する力が優先)。施主側は請け手側から脅かされる時代となり(単価アップ強要をのむ時代)、下剋上となった。30年苦しみ続けた建三氏による経営の蓄積がようやく報われるようになったのである。

ディックスクロキの黒木透氏との縁

 建三氏が強運だったのは黒木透氏と縁をもったことであろうか。2人の関係をウォッチングしてきたが、たしか1991年ごろからの付き合いだったと記憶している。黒木氏はその後、(株)ディックスクロキという会社を上場させた経営者である。建三氏にとって初めて継続的に受注をいただける得意先をつかんだという面では大きな意味があった。2001年から08年4月期まで受注が増えていた大きな要因はディックスクロキが上場し、拡大していたおかげである。同社の受注が増大して内藤工務店も潤うようになる。受注量の見込みが期待できたからなのだ。

 仕事が増えただけではない。仕事の質(技術力)の転換ができる機会を得て、内藤工務店の技術力は大幅な質的成長を遂げた(同社の技術水準は格別、高いとはいえなかったらしい)。黒木氏側の下請協力会に入会後は定期的に仕事が回ってくるようになった。20階建て以上の高層物件は内藤工務店にとって未知の領域だった。JVメンバーとして現場の経験を積むことは同社としては名誉なことになった。この工事実績は、その後の受注活動において大いに信用力を発揮したはずである。

 黒木氏側にとって協力ゼネコンの(株)吉川工務店(福岡市中央区)の存在は大きかった。吉川工務店は現場監督を数多く抱えており、安心して10階建て程度のマンションなら発注できていた。一方、内藤工務店には技術面において当初は不安があったため、単独での発注は控えた。JVで名を連ねさせて実績を積ませた(吉川工務店と比較して社員の現場技術者が少ないという懸念があった)そうで、同社にとって吉川工務店から学ぶことは大きかったはずだ。

 受注させてもらい、技術力を高めるという一石二鳥の利を得た内藤工務店にとっては、強力なターボエンジンを装備したのと同様の成果を得たのだろう。08年のリーマン・ショックの渦中、最大の得意先であるディックスクロキが民事再生法を申請して倒産した。だが内藤工務店の実害は皆無だった。

 建設業者は10年代に『栄光の時代』を迎えるようになる。2000年から10年間で内藤工務店は抜本的な体質改善がなされた。だから、あらゆる大型工事(同社の規模でみて)もこなせるようになったのだ。そのおかげで19年3月期の完工高は65億円を突破するまで飛躍した。栄光の恩恵を受ける絶頂の時期に建三氏は旅立ってしまった。「あぁ、無念なり」。

(つづく)

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