2024年03月29日( 金 )

バイオ企業・林原の元社長、林原健氏が死去~マスコミを利用した“バイオの寵児”の神話は砂上の楼閣(4)

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 全国紙の片隅に載っていた訃報記事に目が止まった。「岡山市のバイオ企業、(株)林原の元社長、林原健(はやしばら・けん)氏が10月13日、急性心筋梗塞のため死去した。78歳だった」とある。
 林原氏はかつて“バイオの寵児”ともてはやされたが、それは林原氏とマスコミが一体となってつくり上げた「神話」であった。筆者はそれほどまでにマスコミを利用した経営者を寡聞にして知らない。林原氏の足跡を振り返ってみる。

“バイオの寵児”は27年間、粉飾決算を続けてきた

 林原グループは2011年2月2日、東京地裁に会社更生法を申請した。
 倒産によって、林原の経営実態があぶり出された。これまで非上場を理由に一切の財務諸表の公表を拒否してきたが、事ここに至って不正経理の全容が明らかになった。

 東京地裁に提出された調査報告書によると、不正経理は1984年10月に始まり、発覚した2011年まで27年続いていた。1990年から2001年までに、合計278億円の架空売上が計上されていた。グループ4社の負債総額は2,743億円、債務超額は551億円にのぼった。

 「研究開発型企業」の美名の陰で会社を実質的に支えてきたのは不動産や株式の含み益であった。リーマン・ショック以降の地価下落で、融資の担保となっていた土地が担保割れを起こした。メインバンクの中国銀行と準メインの住友信託銀行が互いの融資額を突き合せた結果、林原が銀行ごとに借入残高などが異なる決算資料を提出していたことが判明し、粉飾決算が発覚したのだ。

 林原氏の“バイオの寵児”の神話は、一瞬にして剥げ落ちた。林原氏の独創性にこだわるビジネス手法を称賛してきたマスコミにおいて、以後、林原氏を論ずることはタブーになった。

 林原グループは化学専門商社、長瀬産業(株)の完全子会社として再建されることになる。

林原兄弟が別々に著した「倒産」の実態

 林原グループの破綻は、同族経営に一石を投じた。林原グループはかつて、同族経営の成功モデルと言われたこともあったが、実際には同族経営の悪臭が噴き出ていた。

 林原氏は会社更生法を申請した日に記者会見し「私は経営者にはまったく向いてなかった」と語った。午前11時半に出社し午後2時ごろ退社する「執務時間3時間の社長」では、経営ができるわけがなかった。

 同書によると、社長・林原氏は研究開発部門、弟の靖氏が経理など会社実務全体を担当する二人三脚で経営をしていた。
 社長・林原氏は、月次の損益のみでなく、年間の貸借対照表や損益計算書の内容すら把握していなかった。そして不正経理が発覚した際、林原氏がこの衝撃の事実を聞いたのは靖氏からではなく銀行からであった。

 なぜ、弟は兄に不正経理を隠し続けたのだろうか。林原氏は、強権的にふるまっていた父と兄弟間の関係や、事業を引き継ぐはずだったもう1人の弟・暁氏(留学中にオートバイ事故で急逝)の存在など、歪んでしまった兄弟間の関係について、後日著した『林原家 同族経営への警鐘』(日経BP社刊)のなかで、自身の生い立ちから始めて赤裸々に書いている。

 靖氏は、『破綻-バイオ企業 林原の真実』(ワック刊)を著して兄に反論した。抗がん剤用途のインターフェロン製造のために建設した吉備製薬工場は、稼働実績が2割を上回ったことがないとし、後の経営破綻の最大の原因の1つにあげた。これは、林原の天然型インターフェロン製造法が、後発の競合する遺伝子組み換えインターフェロン製造法に対して効率が劣っていたことによるとしている。

 その後、優良資産や事業はことごとく売り払われ、林原グループは解体された。林原健氏、靖氏の兄弟は父親の莫大の遺産を、ものの見事に食い潰したことになる。林原氏のオカルト人生は、資金がすべての経済リアリズムの前に敗れ去った。

 それでもなお、林原は世の同族企業の経営者に重要な教訓を残した。2人の著書は、事業の承継をどう考えたらいいかについて、一石を投じている。

(了)

【森村 和男】

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