2024年05月05日( 日 )

【凡学一生の優しい法律学】三権分立論の嘘(3)

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 日本国民の大部分が、日本は三権分立の民主主義国であると信じている。しかし、彼らは政治的制度について論理的にも事実実証的にもまったく確認することなく、「制度の建前=真実」という極めて稚拙な認識をもってはいないか。
 日本が真の意味で民主主義に基づく三権分立国であるかどうかは、憲法の記述と現実に発生した政治事件の顛末を検討・検証すること確認できる。大事なことは、「自分が信じる日本社会が嘘の社会であることを実感するために憲法を読む」という視座で臨むことであり、「難しい」「難解」と思い込む自己の内面がそもそも「誤った認識に毒され、洗脳されている」ことを知るべきである。

 行政権と立法権との間では、国会議員が事実上、立法能力がなく、重要な法律はすべて閣法(内閣提出法案)であり、国会では、野党国会議員が政治スキャンダルを予算委員会で乱闘を交えて演じ、本会議で牛歩戦術を見せ付けるだけである理由も理解できるだろう。異常な数の国会議員定数は減らすどころか増えるだけである。

 立法権がこのような実態であるため、国会の行政権に対する抑制機能を期待するほうが無理である。

 お笑いタレントの杉村太蔵氏は、元政治家(衆議院議員)として無知を「うりもの」に「薄口政治評論家」として活躍している。日本の国会議員の知的レベルはこの程度であり、「お笑いレベルの政治」が実態ではないか。

 もはや死語となりつつある「国政調査権」も、立法府が行政府や司法の行為をチェックする制度である。この制度も法匪が行政権や司法権に優位であるように解釈論を構築しており、事実上は機能不全である。

 有名な浦和充子事件(1948年に妻が一家心中をはかった事件)では、具体的な裁判内容が問題になり、国会が具体的な個別の裁判に口を挟むことは権力分立の原則に反すると批判された。この事件から、「個別事件性論」によって、残念なことに国会はすべての社会事象において国政調査権の発動を自粛してしまった。国会議員が法匪の似非論理にいかに弱いかということが、見事に立証された。

 日本の国会議員は本当に法的知性が低く、立法作業が職務の中心であるのに、法律学や法理論、法社会学を勉強しない。杉村太蔵氏と大差ないと評価される所以である。

 1つの社会事象(個別事件)について、三権がそれぞれに関与することはまったく当然のことで、裁判所の判断と国会の判断は、文字通り対等である。国会が調査することは、裁判干渉でもなければ裁判妨害でもない。

 国会の調査権発動が裁判官に影響を与えるという前提論が誤りであって、裁判官が常に行政権の意向を忖度する習性から、思わず本音が出たという理解もできる。この世に存在する事象は、すべて「個別の事件」である。そして三権はそれぞれの立場で個別の事件について責任ある見解、見識をもたなければならない。ただし、司法権には事件性の要件という、当事者の具体的な法的主張があって初めて、個別事件を認識するという特殊性をもつ。

 個別の事件について三権で異なる見解が存在することを容認することこそ、三権分立の本質である。行政の「個別の事案のため、詳細については情報を開示しない」という弁解により、幾多の不正事件の真相が闇に葬られてきた。

 現在ではさらに個人情報保護論の誤用・濫用で、行政情報の秘密化、隠蔽化がより一層に進んだ。これらもすべて、法匪が考案した似非法理論である。個人の利益と国民全体の利益が衝突した場合、個人の利益を譲歩すべきことは、国民全体が個人利益の集合体のため当然である。

 個人の利益が、誤って「存在しない国民全体の利益」の犠牲となった場合には、責任問題が発生する。しかし、最初から個人の利益、「個人情報保護」を理由に行政が保有情報の開示を拒絶することは、明らかに隠蔽の「口実」として個人利益を利用している。行政の主張は「国民全体の利益が存在しないという前提」を欠いた、単なる自己都合による隠蔽だからである。

(つづく)

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