2024年04月29日( 月 )

ともに発展してきた県都と泉都、大分&別府の今昔、そして未来は――(2)

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宗麟の下で絶頂期を迎えた大友氏支配の中世・大分

大友宗麟像
大友宗麟像

 中世・鎌倉期に入ると、大分市域を中心とした豊後国では大友氏が台頭。鎌倉~南北朝~室町~安土桃山と約400年間にわたって、大友氏による同地の支配体制がスタートした。

 大友氏の初代当主・大友能直が豊後・筑後守護職と鎮西奉行職に就任したのは、鎌倉幕府成立から間もない1196(建久7)年ごろとされているが、現地に赴任しない遥任国司というかたちであり、能直およびその子である第2代・大友親秀はともに、守護として豊後国に入国した事実はないとされる。大友氏として最初に豊後に入ったのは第3代・大友頼康で、ここから大友氏は豊後に土着し、以降は中世の全期間を通じて豊後の主として君臨。豊後の各地の農村ではさまざまなかたちで大友氏との関係を取り結んだ中小の武士らが勢力を養い、地域の士豪として配下に多くの農民を従えていった。また、大友氏が本拠とした守護所を中心に「府内」(当初は府中)と呼ばれる市街が形成されていったが、これが現在の大分市中心部の原型となる。

 大友氏の歴代当主のなかで最も名が知られているのは、キリシタン大名として名高い第21代当主・大友義鎮(よししげ)であろう。ただし、名前としては義鎮よりも、法号である「宗麟(そうりん)」で呼ばれることのほうが多い。宗麟は、周防・長門(現在の山口県)および筑前・博多を支配していた大内氏の滅亡後に実弟の晴英を新当主として送り込み、筑前・博多の支配権を獲得。さらに、肥後の菊池氏を滅亡させて手中に収めるほか、室町幕府の信任を得て豊前と筑前の両国の守護職に就任し、九州探題(室町幕府が九州統制のために置いた職)にも任ぜられるなど、一族が受け継いできた豊後・筑後だけでなく、北部九州一円を実質的に支配して勢力・版図を拡大していった。

フランシスコ・ザビエル像
フランシスコ・ザビエル像

 また、1551年に豊後を訪れたイエズス会宣教師のフランシスコ・ザビエルらに、領内でのキリスト教布教を許可。自らも78年に改宗して洗礼を受けて「ドン・フランシスコ」を名乗り、82年には伊東マンショを名代とした天正遣欧少年使節をローマに派遣するなど、キリスト教を厚く信仰した。こうした宗麟の下で、府内では日本で初めて宣教師養成学校や西洋式の病院が開設されるなど南蛮文化が開化。また、南蛮貿易や日明貿易(当時の中国・明との貿易)によって府内は九州で最大の城下町となり、日本でも最大級の南蛮貿易の拠点として繁栄を極めた。

 だがその後、九州全体への勢力拡大を図る薩摩・島津氏によって攻められ、一時大友氏は滅亡の危機に陥った。織田信長に島津氏との和睦の仲介を依頼するも、本能寺の変で信長が没したことで立ち消えとなり、豊臣秀吉の傘下に入ることと引き換えに軍事的支援を受けて、何とか生き長らえることに成功。晩年の宗麟は秀吉傘下の一大名となった。しかし、宗麟の子である第22代・大友吉統(よしむね)が、父・宗麟が亡き後の92年の文禄の役において朝鮮出兵した際、味方の援軍要請に対応できず、結果的に窮地の味方を見捨てることになった。これが秀吉の逆鱗に触れて大友氏は改易(大名の領地・身分・家屋敷を幕府が没収し、取り潰すこと)となり、初代・能直以来22代にわたって続いた大友氏の豊後支配は終焉を迎えた。

諸領が犬牙錯綜する江戸期、天領だった温泉地・別府

 江戸期になると徳川幕府による幕藩体制によって、現在の大分市中心部の大部分は「府内藩」となった。改易となった大友氏に代わって府内藩の初代藩主となったのは、もともとは美濃・長松城主で外様大名だった竹中重利。重利は府内城を改修して大規模な城郭を完成させたほか、港や城下町を整備するなど、現在の大分市の発展の基礎を築いた。だが、跡を継いだ2代・竹中重義は密貿易などの職務上の不正によって切腹を命じられ、府内藩竹中氏は改易・廃絶となった。その後、下野国・壬生藩(現在の栃木県)から日根野吉明が藩主として入るが、没後に後継者がいなかったことで日根野氏は改易となり、豊後高松藩主だった松平忠昭が藩主となった。以降、明治維新に至るまでの江戸期を通じて、大給松平(おぎゅうまつだいら)氏が10代にわたって藩主を務めている。

唐破風造の屋根が特徴的な竹瓦温泉
唐破風造の屋根が特徴的な竹瓦温泉

 こうして江戸期の大分市域は、現在の市中心部こそ府内藩の領地だったが、ほかにも臼杵藩、岡藩、熊本藩、延岡藩などの4藩の領地のほか、幕府領などが入り交じり、犬牙錯綜の様相を呈していた。なかでも熊本藩は、藩主・加藤清正が瀬戸内海への航路確保のために鶴崎(現・大分市鶴崎)を領有することを願い出て領地として港や町をつくったほか、鶴崎を起点に肥後国・熊本までの肥後街道を整備。熊本藩の参勤交代に用いた。また、佐賀関にも熊本藩領として港を整備し、幕末期の1864(文久4)年には勝海舟と坂本龍馬ら一行が船で佐賀関に上陸して、肥後街道を通って長崎に向かったとされている。

駅前高等温泉
駅前高等温泉

 一方の別府市域は、鎌倉から室町期にかけては大友氏の統治下に置かれていたとされるが、大友氏の改易にともなって江戸期には大部分が幕府直轄のいわゆる天領となり、幕府の役所であった高松代官所(現在の大分市日岡に設置)の下で統治されていた。そのため、温泉地でありながら幕府領以外の湯治客は厳しく制限。別府入湯には幕府当局の許可が必要で、各藩に対して所定金を納入させ、入湯許可札を交付するというシステムとなっていた。ただし、制限されていたとはいえ、別府市域の各温泉は湯治場としてある程度栄えていたようで、1694(元禄7)年に別府の地を訪れた福岡藩の学者・貝原益軒の記した「豊国紀行」では、「鉄輪村は別府の北一里余りに有。実相寺山より猶北也。熱泉所々に多し。民俗是を地獄と称す。湯の上にかまへたる風呂有。病者是に入て乾浴す」などと紹介されている。

(つづく)

【坂田 憲治】

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