2024年03月30日( 土 )

日本製鉄が東京製綱に対する血の粛清~「ガラガラポン」で、役員人事総入れ替え(後)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

 坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。その人を憎むあまり、その人に関係のあるものすべてが、憎くなるというたとえ。この諺を地でいく出来事があった。ワイヤロープの国内最大手、東京製綱(株)の全取締役が退任する。前会長・田中重人氏を追い落とした筆頭株主の鉄鋼最大手、日本製鉄(株)が放った二の矢が、盾突いた役員らを「ガラガラポン」での総入れ替え。全体主義国家を彷彿させる「血の粛清」である。

田中会長は旧富士製鐵出身の最古参で、目の上のたんこぶ

会議室 イメージ 田中重人氏は1943年1月生まれの78歳。67年富士製鐵に入社。合併後の新日鐵では取締役大阪支店長を勤めたのを最後に退任。2001年6月に旧富士製鐵の出資先である東京製綱の副社長に転じて、翌02年4月に社長に就任。10年から会長の座にある。この間、東京製綱を代表する立場の代表取締役をずっと務めている。

 日本製鉄の前身の新日鐵住金時代から確執があったようで、定時株主総会での取締役再任の賛成率は低かった。18年6月総会の賛成率は79.47%、19年6月総会は80.2%、20年6月の総会は82.21%。浅野正也社長の賛成率が94.90%あったのに比べて、かなり低い。日本製鉄側が田中氏に一貫して反対票を投じてきたことを示している。

 19年4月1日、新日鐵住金は社名を日本製鉄に変更。戦後の1950年の旧日本製鐵解体後、「日本製鉄」の名称が69年ぶりに復活した。70年の八幡製鐵と富士製鐵合併で発足した旧新日本製鐵歴代社長の悲願であった。2012年10月、当時の新日本製鐵と住友金属工業が合併して新日鐵住金になっても、執念は変わらなかった。

 新日鐵住金の商号から変更する際、「『住友』の名称を残してほしい」という旧住金側の要求に対し「我々も『新日鐵』にこだわっていない」とやんわり断り日本製鉄に落ち着いた経緯がある。

 社名変更にともない、橋本英二副社長が社長に昇格、進藤孝生社長が代表権のある会長に就いた。橋本社長は79年に新日鐵に入社、進藤会長は新日鐵発足の3年後の73年に入社した生え抜きだ。12年の新日鐵住金の誕生まで社長を務めた宗岡正二相談役(70年入社)よりも上である。

 新日鐵は年次や上下関係を重んじ、かつては官僚組織と評された。東京製綱の田中会長は、新日鐵以前の富士製鐵に入社した長老である。新日鐵生え抜き組でグループ経営を支配したい経営陣にとって、大先輩である田中会長はいうことをきかない目障りな存在であった。

 専門紙『日経産業新聞』(21年2月15日付)は〈「いうことを聞かない人と有名で、皆手を焼いていた」「(田中氏の扱いが)歴代社長の課題だった」〉とのOBの話を伝えている。個人的確執に根ざした異例なTOBになった理由である。

 3月9日敵対的TOBは成立し、田中会長は3月31日付で辞任した。これにて一件落着かというと、そうではなかった。

 橋本社長は中長期経営計画発表の記者会見でも「東京製綱の今の経営は我々の期待に合っていない」と批判していた。次に繰り出した手が、全取締役8人の退任。TOBに反対した取締役に落とし前をつける。全員血祭りにあげる粛清人事だ。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」を地でいったのである。

(了)

【森村 和男】

(中)

関連記事