2024年04月20日( 土 )

さらば、新自由主義~2度目の「焼け野原」から立ち上がるために(2)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

ライター 黒川 晶

77年周期のツイン・ピークス

新芽 イメージ 明治政府が「御雇外国人」の指導で新しい国づくりを推進したように、戦後日本も米占領軍の指導のもと、新たな民主主義国家としての社会的・法的整備を急ピッチで進めた。1952年には国家主権も回復し、以後、製造業と民間貿易で平均9.3%にも達するめざましい経済成長を遂げていったのは、周知の通りである。「反共の砦」として米国の極東戦略に組み込まれたがゆえの戦争特需や1ドル360円の固定為替相場、さらには石油をはじめとする輸入原料の安さが大きく作用したことはたしかであるが、その基盤をなしたものは、この時もやはり、国内に豊富に存在した安価な労働力――「金の卵」と呼ばれた、地方農村出身の若年労働者――であった。

 ベトナム戦争で国力低下に陥った米国の意向による、71年の1ドル=308円への切り下げおよび73年の変動為替制度への移行と、第四次中東戦争に端を発する原油価格高騰(オイルショック)という二重の危機に日本経済が耐えられたのも、消費も活発な生産年齢人口を有したためである。省エネ・省資源という新しい世界の要請をキャッチし、いち早く動いたのも彼らである。製品の小型化・軽量化にシフトするとともに、半導体という新技術開発に官民挙げて取り組んだ。これが大きな成功を収め、世界から沸き起こる「メイド・イン・ジャパン」賞賛の声とともに、80年代半ばには米国につぐ世界第2位の経済大国となったのである。戦前の日本がわずか40年あまりで列強入りをはたしたように、新生日本もこうして40年あまりで世界の頂点に駆け上った。

 そして、いまや「失われた30年」ともなるその後の「凋落」もまた、第一次大戦後から敗戦までの約30年と同じプロセスで進行したことに思い当たる。91年のバブル崩壊、2008年のリーマン・ショック、11年の東日本大震災および福島第一原発事故、そしてこのたびのコロナ・パンデミックというように、度重なる危機に見舞われながら経済が行き詰まっていったこと。冷戦終結とともに世界はグローバル資本主義経済となり、日本企業もグローバル市場という戦場で「世界大戦」を戦うことになったこと。かつて軍が日清・日露両戦争の成功体験から巨艦主義に固執し、太平洋戦争では主流となった航空戦に対応できなかったように、「メイド・イン・ジャパン」の栄光を忘れられない経営者らがアジア新興諸国の成長力を直視できず、あっという間に後塵を拝する状況に陥ったこと。

 何より、大企業がこの新しい「世界大戦」で勝ち残れるように、国民に分配されるべき富がそこへどんどん注ぎ込まれていったことである。生産性を上げるモチベーションになると言いながら、政府はあらゆる領域に競争原理を導入するとともに、国営事業の民営化や社会保障費の削減を急速に進めていった。大企業も「選択と集中」と称して、直ちに収益に結びつかない部門を早々と外注化していくと同時に、従業員の大半を非正規雇用に置き換えながらコスト削減に血道をあげる。かくして産業は空洞化し、安定した生活基盤を失った国民は必要なものを十分に買うことも、子どもを産み育てることすら困難になった。

 その結果が、次々と入ってくる「日の丸」企業の外資への身売りのニュースであり、ずるずると順位を下げ続ける種々の経済指標であり、コロナ禍1年半を経て「1人負け」の様相を呈している日本の現状である。メディアがいくら「日本スゴイ」番組や記事を流そうとも、また、いくら隣国の悪口を叩こうとも、それは虚しく自分を慰めるだけで何ら建設的なものを含まない。日本人は今こそ認めなければならない、日本は再び敗北したのだ、と。日本人がかつて焼け野原から立ち上がったのも、「敗北を抱きしめて」(ジョン・ダワー)のことだったのだから。

(つづく)

(1)
(3)

関連記事