2024年04月20日( 土 )

【唐津街道中膝栗毛/後編】景観保存と開発の狭間で揺れ動く箱崎~小倉の旧宿場町(前)

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青柳(古賀市)

交通至便性と静けさが同居する 旧・青柳村の中心地

左:託乗寺 / 右:五所八幡宮

 青柳宿は、県道536号・米多比谷山古賀線と県道536号・町川原福岡線とが交差する付近の、古賀市青柳町・青柳・川原あたりにあったとされる宿場町である。青柳宿は北から新町、上町、横町、下町と4つの町で構成されており、1605(慶長10)年ごろに川原村の住民によって上町が、青柳村良仙寺の住民によって横町が形成され、1625(寛永2)年に青柳村古屋敷の住民によって下町・仲脇がつくられて本町ができあがり、1653(承応2)年に新町が加わって、宿場町としてほぼ整ったとされている。宿場は約450mの長さがあり、東と西の出入口2カ所に構口が設置。藩主が宿泊・休憩する御茶屋のほか、上町と下町に1軒ずつ藩主の従者や武士らが利用する町茶屋があった。ほかに郡屋や問屋、制札所などもあり、最盛期には103軒があったというが、江戸期を通じて概ね84軒前後だったという。

 現在の青柳宿一帯は、国道3号と県道35号・筑紫野古賀線の2つの幹線道路に挟まれ、近くには九州自動車道・古賀ICもあるなど高い交通利便性を誇る一方で、周辺には田畑が広がり、あまり開発が進んでいない物静かな印象を受ける。西構口跡が残るほか、かつての御茶屋跡は現在、地場老舗の醤油屋「青柳醤油」に、かつて上の町茶屋だった場所は天理教元鎮西分教会となっている。米多比谷山古賀線沿いにある青柳大師堂や街道筋の託乗寺などの古刹の存在もあり、往時を思わせる雰囲気は幾分か感じられるが、新たな戸建住宅の建築が進むなど、徐々に開発が進んでいる現状もある。

 ここはかつて青柳村の中心地であり、青柳村役場なども置かれていた。青柳村は1955年4月に古賀町(旧)、小野村と合併して古賀町(新)となり、その後97年10月に市制施行されて現在の古賀市となった。

 なお、青柳宿から少し南下し、街道筋に面した場所に鳥居がある「五所八幡宮」は、神功皇后の三韓征伐にも関係する由緒ある神社で、古より粕屋・宗像三郡の総社として人々の崇敬を集めてきた。歴代の福岡藩主も、参勤の際に必ず立ち寄って、道中祈願をしたとされている。また、五所八幡宮から街道筋をさらに福岡方面に南下した新宮町三代には、現在も「太閤水」と呼ばれる湧水が現存している。これは、かつて豊臣秀吉が九州平定の際に、行軍での休憩で立ち寄り、喉を潤したとされる湧水。旧唐津街道の街道筋には、ここのほかにも北九州市若松区や宗像市、福岡市西区、糸島市二丈町などにも同様の名前の湧水があり、往時には唐津街道を行き交う旅人の喉を潤したことであろう。このように宿場町以外にも、街道筋には往時の面影がところどころ残されているようだ。

左:太閤水 / 右:青柳醤油
左:太閤水 / 右:青柳醤油

【坂田 憲治】

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