こども病院跡に医療・教育施設?変貌する「福岡・唐人町」(前)
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路面電車の開通とともに、電停周辺の都市化が進む
唐人町一帯は明治期になっても、基本的なまちの骨格自体は江戸期と大きく変わることはなかったようだ。とはいえ、このエリアでも徐々に都市化が進んでいくことになる。
1892(明治25)年には、当仁尋常小学校(現・福岡市立当仁小学校)が開校。同地においては、前出の甘棠館の焼失(1792年)からちょうど100年目に新たな教育機関が誕生したかたちだ。なお現在、唐人町一帯には同小学校以外に、西日本短期大学や福岡大学附属若葉高等学校、その他いくつかの小・中学校や専門学校などが集積し、一種の文教地区を形成している。
現在のこども病院跡地の場所には、1908(明治41)年の最新実測福岡市街全図まではとくに目立った記載がないものの、翌09年発行の福岡市街図里程附では「傳染病院」の記述がある。その後、同地の病院は「荒津病院」などと地図上の記載変更を経ながら、1931(昭和6)年に福岡市立病院の西部診療所(荒津病院)を経て、翌32年に「市立第二病院」へと改称。1980年9月には「福岡市立こども病院・感染症センター」が開院し、2014年11月にその役目を終えるまで、同地における医療の拠点として存在感を示し続けた。
10(明治43)年3月には、路面電車である福博電気軌道(西日本鉄道の前身の1つ)の黒門橋停留場が、同年12月には唐人町停留所が設置され、鉄軌道の開通とともに唐人町一帯も都市化が進んでいくことになる。かつての唐津街道沿いの町屋群はやがて商店街へと姿を変え、その傍ら、現在の黒門川交差点にあたる黒門橋停留場付近には、郵便局もできたようだ。
27(昭和2)年3月には、近隣の大濠西側一帯を会場として「東亜勧業博覧会」が開催。大濠の西側を埋め立てた会場には、ロマネスク様式の本館のほか、教育館、農業館などのパビリオンがつくられた。また、「朝鮮館」や「台湾館」「満蒙(まんもう/満州・蒙古の意で、中国東北地区やモンゴルを指す)館」などもつくられ、中国や東南アジア諸国についての展示も行われたというが、隣接する唐人町の名前とも奇妙にリンクしている気がしてならない。
なお余談だが、実は唐人町はあの「ヤクルト」の創業の地でもある。1930年にヤクルト菌を発見した代田稔氏に賛同したヤクルトの初代社長・永松昇氏は、35年に唐人町の菰川沿いで「代田保護菌研究所」を立ち上げ、ヤクルトの製造・販売を開始した。これがヤクルトの起源とされており、「代田保護菌研究所」があった場所、地下鉄唐人町駅からドームに向かう途中の片隅には現在、ヤクルトの瓶のかたちをしたモニュメントに「健腸長寿」「ヤクルト事業創業の地」と書かれた碑が立っている。ただし、この碑は現地で見てみると想像していたよりもずっと小さいため、横を通っても気づかずに見落としがちだ。
太平洋戦争末期の1945年6月に福岡のまちを襲った「福岡大空襲」では、市中心部の大部分が焼け野原となったが、幸いなことに唐人町一帯はそれほどの被害を受けなかったとされている。終戦後は福岡市全体の復興とともに、唐人町一帯も適度に都市化が進行。68年には福岡市の町名町界整理により、「東唐人町」「西唐人町」「浪人町」「枡木屋町」「大円寺町」「東唐人町堀端(一部)」「新大工町(一部)」が統合されて「唐人町1~3丁目」となったほか、「新大工町(一部)」「西唐人町(一部)」「大濠町(一部)」が統合されて「黒門」となった。なお、75年11月の西鉄福岡市内線・貫線の全線廃止により、唐人町電停もその役目を終えて姿を消している。
(つづく)
【坂田 憲治】
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