2024年04月25日( 木 )

本当は「怖くて・深い」童謡の世界(後)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

大さんのシニアリポート第109回

サロン幸福亭ぐるり カラオケ    『しゃぼん玉』にも謎が多い。作詞した野口雨情が自身の愛娘を2人亡くしていることから、その思いを詩に託したという説が有力である。娘の1人はみどりといった。みどりは雨情が北海道で新聞記者をしていた1908年に、生後7カ月で亡くなっている。もう1人は2歳で逝った恒子である。

 雨情は自作の童謡を普及させるため、作曲家の中山晋平や歌手の佐藤千夜子らとともに「全国歌の旅」に出ていた。一行が四国の徳島に滞在していたとき、愛娘の訃報を耳にする。こうした事実に合わせ、77年に放送されたNHK朝の連続テレビ小説『いちばん星』のなかに、柳生博扮する雨情が、「この歌は子どもを亡くした思いを詩に託した」と述懐するシーンがあり、これが愛娘死去説に大きく影響したとされた。

 1922年に詩を発表した雑誌が『赤い鳥』や『金の船』などの児童雑誌ではなく、『金の塔』(大日本仏教子ども会発行)という仏教系の雑誌だったことも、はかなく消えた愛娘の命を歌ったという説に拍車をかけた。また、極貧にあえぐ農家の娘が苦界に身を落とし、亡くなっていくことを哀れんだ雨情が詩に託したという説もある。

 フォーク歌手の高石ともやは、自身のコンサートで必ず『しゃぼん玉』を歌った。「しゃぼん玉を歌うと父のことを思い出します。この歌は『間引きの歌』だと父から聞かされました」。貧しい家に育った高石にとって『しゃぼん玉』は、自身の生い立ちを映す曲として歌い続けたに違いない。

 雨情の長男で、父の実情に迫る書を数多く著している存彌(のぶや)氏によると、雨情の詩人としての独自性は、詩の表現に私的な性格を持ち込まないところにあり、我が子をテーマに詩を書くことはなかったと発言している。いずれにせよ、このようにさまざまな解釈が生まれるということは、詩そのものに聞く人それぞれの思いを引き出す魅力が秘められている証だろう。

サロン幸福亭ぐるり カラオケ    ところで、演歌に『みちづれ』(作詞:水木かおる、作曲:遠藤実、歌:牧村三枝子)という曲がある。歌詞の最後に「きめた きめた おまえとみちづれに」とある。これは変だ。「みちづれ(道連れ)」とは、相手の意志には無関係に、無理に一緒の行動を強いることだ。だとしたら、「おまえ(と)」ではなく、「おまえ(を)」だろう。作詞者名は忘れたが、「煙草くわえて 口笛吹いて」という歌詞を思い出した。「できるわけないだろう」と言いたいところだが、雰囲気は理解できる。

 ほかにも、『波浮の港』(作詞:野口雨情、作曲:中山晋平)の1番の歌詞に「磯の鵜の鳥ゃ/日暮れにゃ帰る/波浮の港にゃ/夕焼け小焼け」とあるが、大島には海鵜はいない。島の南南東に位置する波浮の港で夕焼けは見えるのだろうか。雨情は大島には行かずに作詞したと述べている。

 タモリ(森田一義)さんは、『赤い靴』(作詞:野口雨情、作曲:本居長世)の2番の歌詞にある「異人さんに/つれられて/行っちゃった」を、「ひい爺さんに/つれられて」と間違えて覚え、どうしてひい爺さんが赤い靴を履いた女の子を連れて行くんだろうと思ったという。童謡に限らず、間違えて覚えてあとで恥をかくことは意外に多い。

 さて、「ぐるり」の常連に童謡は似合わない。『七つの子』も『通りゃんせ』も『しゃぼん玉』も思い入れたっぷり、ビブラートを十分に効かせ、演歌風に歌われたら耳を塞ぐしかない。オミクロン変異株の大流行で、外出を控えてほしいとはいえ、カラオケだけには必ず来る常連が多い。ローテーションを組み、入室数を制限していることが余計に歌心を掻き立てるのだろうか。

※『私の心の歌 夏編 秋編』(学習研究社、2003年刊、解説・大山)参照。

(了)


<プロフィール>
大山眞人(おおやま まひと)

 1944年山形市生まれ。早大卒。出版社勤務の後、ノンフィクション作家。主な著作に、『S病院老人病棟の仲間たち』『取締役宝くじ部長』(文藝春秋)『老いてこそ2人で生きたい』『夢のある「終の棲家」を作りたい』(大和書房)『退学者ゼロ高校 須郷昌徳の「これが教育たい!」』(河出書房新社)『克って勝つー田村亮子を育てた男』(自由現代社)『取締役総務部長 奈良坂龍平』(讀賣新聞社)『悪徳商法』(文春新書)『団地が死んでいく』(平凡社新書)『騙されたがる人たち』(講談社)『親を棄てる子どもたち 新しい「姥捨山」のかたちを求めて』(平凡社新書)『「陸軍分列行進曲」とふたつの「君が代」』(同)など。

(第109回・前)
(第110回・前)

関連記事