2024年04月24日( 水 )

「キツネ目の男」宮崎学氏死去、江崎グリコ社長退任(後)

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 1984~85年に起きたグリコ・森永事件の「キツネ目の男」として疑われたことで知られる作家の宮崎学が3月30日、老衰のため死去したと報じられた。76歳だった。奇しくも、その数日前の3月24日には、グリコ・森永事件で誘拐被害に遭った江崎グリコの江崎勝久が40年間務めた社長を退いた。

「近代ヤクザ」の原型は北九州から

 宮崎学著『ヤクザと日本 近代の無頼』(ちくま新書)によると、近代ヤクザは近代都市から生まれた。明治新政府は富国強兵・殖産興業を掲げて産業の近代化を進めた。それにともない新しい産業都市が成立し、そこに新しい型のヤクザが誕生した。

 近代ヤクザの原型は、北九州・若松港から出た大親分・吉田磯吉だという。磯吉は幕末の1867年、のちの福岡県遠賀郡、若松港の対岸の芦屋町で生まれた。16歳のとき、遠賀川で石炭の輸送に当たる五平太船(1人乗りの船底が平らな輸送船)の船頭になった。

若松港 イメージ    当時、筑豊炭田は富国強兵・殖産興業のエネルギー源である石炭を積み出す一大拠点として、600を超える中小炭鉱がひしめきあっていた。掘り出された石炭は、水路を通って、遠賀川河口の積み出し港まで運ばれた。最盛期は、その船の数が8000艘を超えた。

 一匹狼だった磯吉は、同業組合で頭角を現し、大親分にのし上がっていった。筑豊炭田から若松まで、遠賀川流域で働く男たちは「川筋気質」と称される。命知らずの気風が醸成され、磯吉は彼ら川筋者の統率者となった。

 炭鉱の繁栄をテコに若松港は急激に膨張を遂げ、よそ者の街になった。流入者が増えれば、治安が乱れる。会社、商店や歓楽街の水商売の店は、自分たちでは彼らに対抗できない。そこで、「守ってやろう」と、用心棒を派遣する親分が現れる。口あたりの良い言葉を使えば「民警(民間版の警察)」として荒くれ者を抑える役割をはたしたのが、大親分の吉田磯吉だという。磯吉は近代ヤクザの祖だ。

川筋ヤクザが神戸に進出、山口組誕生

 当時の若松港を舞台に描いた小説に、火野葦平著『花と龍』(岩波現代文庫)がある。火野葦平(本名・玉井勝則)の父・玉井金五郎(沖仲士、玉井組組長)と妻・マンの家族の物語である。若松の沖仲士の連合をめぐって抗争した敵方の首領が吉田磯吉だった。火野葦平は玉井組の若親分として采配を振るった。

 金五郎の娘が中村家に嫁ぎ、そこで生まれたのが医者の中村哲だ。日本のNGO「ペシャワール会」(本部・福岡市)の現地代表として、戦乱のアフガニスタンで用水路を掘り65万人の生活と命を救ったが、19年12月4日、武装勢力に銃撃され死去した。

 もともとヤクザは、博徒やテキヤ(香具師)であったが、近代ヤクザの成立は、若松の磯吉に始まる。規模の大きな、沖仲士を束ねる近代ヤクザの典型といわれてきた。磯吉以後、近代ヤクザは日本中に広がっていく。

 海軍鎮守府が置かれた横須賀で、沖仲士を取り仕切る近代ヤクザとして生れたのが小泉組。軍港ヤクザの小泉組の二代目、小泉又次郎が、のちの首相・小泉純一郎の祖父である。小泉純一郎が政争に強いのは戦になると、ヤクザのDNAが目覚めるからだとされる。

 吉田磯吉の配下が神戸に移り、沖仲士を仕切るヤクザ組織が誕生した。九州から同じ「川筋者のヤクザ」がやってきて神戸を一手に仕切る。そこから誕生したのが、港湾荷役人夫を口入れする山口組。戦後、日本最大の指定暴力団となる。

 山口組は沖仲士の組で、博徒の組ではなかったことから、伝統的なヤクザとはみなされていなかった。山口組がその典型だが、成立当初から合法事業と非合法事業の両輪で回していた。非合法一本でないのが近代ヤクザの大きな特徴だ。

 こういった裏社会の出来事は、宮崎学の著書で知ることができる。

(了)

【森村 和男】

(中)

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