2024年03月29日( 金 )

「キツネ目の男」宮崎学氏死去、江崎グリコ社長退任(中)

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 1984~85年に起きたグリコ・森永事件の「キツネ目の男」として疑われたことで知られる作家の宮崎学が3月30日、老衰のため死去したと報じられた。76歳だった。奇しくも、その数日前の3月24日には、グリコ・森永事件で誘拐被害に遭った江崎グリコの江崎勝久が40年間務めた社長を退いた。

「かいじん21面相」とグリコの裏取引疑惑

 「かいじん21面相」を名乗る犯人たちによる「全国のファンのみなさんへと」とか、「けいさつのあほどもえ」などといった、挑発的な文書を警察やマスコミに送り付け、それも話題になる原因となった。そして「わしらもう あきてきた」「グリコ ゆるしたる スーパーも グリコ うってええ」と一方的に”終結宣言”が出されるまで、グリコと犯人側とで裏取引があったのではという疑いは消えていない。

 1984年6月29日、松下幸之助を迎えて開かれた株主総会で、社長の江崎勝久は、裏取引はなかったと8回も繰り返したという。

 宮崎学と親交があった、同じ年の評論家、佐高信は『戦後 企業事件史』(講談社現代新書)で、グリコ・森永事件に触れている。

 〈大下英治は『小説グリコ事件』(グリーンアロー出版社)で、グリコの創業者の江崎利一は闇の世界の人間とのつきあいを大事にしたのに、勝久社長はそれを切ろうとしたから事件が起こったと、グリコと関わりの深いアウトローに言わせている。

 「社長がいまの椅子に座るときも、実は40歳では若過ぎる、というので、総会屋たちのあいだでひともめさせてやれ、という動きがあった。それを大きな騒ぎにしないで封じ込めたのも、私が、古くから利一翁と裏のつきあいの人間たちに協力させたおかげなんです、それを、商法改正の大義名分のもとに、総会屋やアウトローを切り捨てるのは、あまりに・・・」〉

 1982年、商法改正で総会屋への利益供与が禁じられた。以降、企業による総会屋への利益供与事件が噴出した。グリコ・森永事件は、その流れのなかで起きたといえる。

 誘拐された勝久がこれから、グリコ・森永事件について、語ることはないだろう。

宮崎学は生来のアウトローだった

アウトロー イメージ    宮崎学は1945年10月25日、京都・伏見の暴力団組長の家に生れた。家庭教師だった京大生からマルクス主義の手ほどきを受けて、早稲田大学に入り、民青(日本共産党の青年組織、日本民主青年同盟)の武闘派になった。東大闘争では民青部隊を率いて、全共闘と対決した。

 大学を中退して、週刊誌『週刊現代』のフリー記者を経て、家業の解体業を引き継いだものの、倒産。戦後日本の裏社会や経済の実態を描いた96年の自伝的著作『突破者』(幻冬舎アウトロー文庫)で作家としてデビューした。

 グリコ・森永事件では、現金の受け渡し場所近くで目撃された「キツネ目の男」に似ていたことから警察の事情聴取を何度も受けた。以来、「キツネ目の男」が彼の代名詞となった。

 ニッポン放送NEWS ONLINE(18年4月18日付)の、須田慎一郎の気になる「未解決事件」の番組に出演した宮崎は、グリコ・森永事件について、こう語っている。

 〈あれだけ大掛かりなことをやって、まったく金が動かなかったとは考えづらいので、じゃあ金が動いたとして、どこで、どういう風に動いたのだろうと。そこが僕が一番関心が高い〉

 当時、アシがつくような現金の引き渡しではなく、まったく関係ない会社の株を利用しての株価操作の可能性が指摘された。カネはどう動いたのか、真相は闇のなかだ。

 宮崎学は、生来の無法者、アウトローだった。暴力団などをテーマに執筆を重ねた。

(つづく)

【森村 和男】

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