2024年04月25日( 木 )

【日本地方再生の道(6)】丹後ちりめんのまち「京都府与謝野町」

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丹後ちりめんのまち「京都府与謝野町」    京都府北部、丹後半島の付け根に位置する、京都府与謝郡与謝野町。同町は2006年3月1日に加悦町・岩滝町・野田川町が合併してスタートした。面積108.4km2、人口20,419名(22年4月30日現在)で、主力産業は農業と織物業。福知山市、宮津市、京丹後市に隣接した山林・丘陵および田畑に囲まれた、のどかな風景が魅力の町である。

 同町によると、この地域は弥生時代、各所に集落が営まれ、古墳時代には古墳公園の蛭子山古墳に象徴される大型古墳が築造されて町内に1,500の古墳がつくられた。奈良・平安時代には平城京や平安京から丹後国府に至る官道が、町内を南北に走り、平安時代には、絹織物の装束が生産されていたそうだ。中世は絹織物をはじめとする織物生産で栄え、京都の社寺が庄園となった。とくに加悦庄は室町時代・足利氏の庄園となり、武士の袴に使用する厚手の丹後精好(せいごう)と呼ばれる絹織物を生産していた。

 戦国時代には、守護代・延永氏と国人・石川氏が対立、さらに武田氏、朝倉氏、幕府の管領家である細川氏がからむ大規模な戦乱が勃発。最終的に石川氏が勝利したものの、後に織田信長の丹後攻めにより細川藤孝が丹後を支配し、今日の野田川・加悦地区は細川氏の重臣・有吉氏が支配した。

丹後ちりめんのまち「京都府与謝野町」    近世は宮津藩に属し、現在の大字につながる村が20村成立したものの、絹織物生産が低調となった。1722年に手米屋小右衛門と山本屋佐兵衛が京都西陣で「ちりめん」製織技術を学び、以来「ちりめん」が広まった。さらに19世紀に入ると岩滝で日本海の廻船業が盛んとなり、北国と大坂を結ぶ北前船が就航。明治維新以降は、織物業がまちの中核産業となり、追随するかたちで農業も進化・発展し、現在に至っているという。

 国内の「ちりめん」の産地としては、「越後ちりめん」(新潟県上越市)、「長浜ちりめん」(滋賀県長浜市)などが挙げられるが、とりわけ有名なのが「丹後ちりめん」だ。その技法や素材などについては、歴史を重ねるごとに進化発展を遂げている。(詳細については、別の機会に述べる)

丹後ちりめんのまち「京都府与謝野町」    「ちりめん街道」は、江戸時代から昭和初期にかけて「丹後ちりめん」が隆盛を誇った場所で、同町の歴史的資産としても有名である。旧ちりめん商家など江戸・明治期に建築された家屋が軒を連ねる約800mの道で、旧尾藤家住宅など260棟の歴史的に重要な建物から、当時の繁栄ぶりをうかがい知ることができる。

 「ちりめん街道」は05年12月には国から「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された。また、「丹後ちりめん回廊」として日本遺産にも選ばれている。

 現在、街道内では、ちりめん業を継承するための活動が、官民一体となって行われている。さらには、カフェなどを店舗として活用する人も出てきている。取材中、ある建物でカフェを運営する女性に挨拶をした。おそらく、他の地域から移住してきたひとだろう。

 同町だけではないが、とりわけクリエイター系の人は、日本古来の住空間に関心を示し、歴史的建物に移って事業拠点にする傾向が強いように感じる。

丹後ちりめんのまち「京都府与謝野町」    同町合併時の人口は25,853人だったが、それから5,434人減少している(4月30日現在)。ブランディングに「丹後ちりめん」を活用しつつ、歴史的・文化的価値が高い建物を宿泊や店舗、そしてオフィスなど、ちりめん織物工房以外の幅広いジャンルに使用することで、地域活性化を図るのも一つの手ではないだろうか。「丹後ちりめん」と歴史的建造物を、より前面におしだすことで、観光客および移住者が増加することに期待したい。

【河原 清明】

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