2024年04月20日( 土 )

古森義久「安倍晋三氏と日本、そして世界」~追悼セミナー(2)

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 今回は8月1日号、古森義久産経新聞ワシントン駐在客員特派員による「安倍晋三氏と日本、そして世界」を紹介。

日本の異端への認識

 日本は一見、非常にバランスの取れた国のようにみえます。経済もよい、社会福祉もよい。教育も悪くない。国内の治安もちゃんとしているといえます。もっとも今回の安倍氏の暗殺で、その国内治安の大欠陥が露呈しました。しかし一般には国内治安は悪くない。しかし1つ大きく欠けている領域がある。それは国の安全保障ということです。自分の国を守るということをしてはいけないのだという自縄自縛があるのです。その異端は憲法に起因します。

 憲法の前文では、「日本国民は平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持すると決意した」と書かれています。これは英語で書かれた憲法を訳したものですから、本来の日本語では「信義を信頼して」と記すべきところを「信義に信頼して」と書かれています。「てにをは」が違うのです。つまり憲法の前文では日本国民は自分の努力ではなくて諸国民の善意に頼って自国の安全を保っていくということをうたっている。それから憲法本体の9条は、普通に読めば自衛隊さえももってもいけないような解釈に取れる。戦争という行為は自分の国を守ることであってもいけないとまで読み取れるような条文になっている。つまり日本は自国を自分で防衛してはならない、という意味に受け取れる憲法なのです。

 このことをだんだん私は外国にいて何度も何度も意識するようになりました。決定的な私自身の目覚めというのは、実は憲法の草案を書いたアメリカ占領軍総司令部 GHQのチャールズ・ケーディスという当時の陸軍大佐ですでに法律家になっていた人との会見でした。

 このケーディスさんは、ニューヨークのウォールストリートの法律事務所で働いていて、そこへ行ったら快く会って話をしてくれたのです。ケーディス氏が終戦直後、25~26人の法律に詳しいとされているアメリカの軍人を集めて、皇居のお堀端にある第一生命ビルのなかで1946年、まだ日本が降伏してから半年しか経ってない占領下の2月の10日間ほどで、一気に日本国憲法を書き上げた。それから30年ぐらい経ってから私は彼のところへ会いに行って、3時間半ぐらい話を聞いたのです。ケーディス氏は当時の憲法起草の経緯を詳しく話してくれました。いろいろなことを言っていたけれども、とにかく早くつくらなければならなかった、とも述べていました。実はマッカーサー司令部は日本側に草案をつくらせようということで最初は松本烝治という法律の専門家の国務大臣に委託をして書かせようとした。ところができあがった草案を見たらこれは大日本帝国憲法とほとんど変わってないと判断された。その結果、マッカーサー総司令部としては絶対に受け入れられない、じゃあどうするか、やっぱりアメリカ側が書こう、ということで一気に10日間で書いたということなのですね。

アメリカ占領軍の書いた日本国憲法

 この事実は、今も護憲派といわれる人たちはあまり言わないですね。そして、このときの日本国憲法をアメリカの占領軍は何のために、何を一番の目的として書いたのか。といったら、彼は極めて簡潔に答えました。「日本という国を永遠に非武装にしておくことでした」と語ったのです。これは当然ですよね、ついその半年前まで日本と4年近く戦って、アメリカを苦しめたというこの軍事強国・日本の出現というのはもう絶対容認できないということで、自衛さえもやっちゃいけないというような条案が最初アイデアにあったという、ここから始まったわけです。日本国の戦後の船出というのは。そしてその国家のゆがんだ構造はいまも変わらないのです。自分の国を守ることができないかもしれない国というのは、やはり国際的にみて異端ですよね。国際的に、世界中を見回しても、そんな国はないわけですから。このことを安倍晋三さんという人はかなり早い時期からよくわかっていた。いま私が申し上げたよりももうちょっと鋭い指摘の仕方で、やっぱり日本の現状を変えなければ、正常な国にはなれない、という信念をもっていたといえます。

 安倍晋三さんはこうした日本の戦後のゆがんだ構造を正すべきだという認識を出発点として政治家としても船出を始めたという実感が非常に強かったのです。彼は国会議員となっても当初は自己主張や自己宣伝が少なかった。謙虚な部分を感じさせることが多かった。しかしじっくりと話をするたびに、彼の深層にある基本的な考え方が伝わってきたという印象をよく覚えています。

 この点は日本のいわゆる平和主義という点にもつながっていきます。私自身の体験をお話ししますと、ベトナム戦争でサイゴンが陥落してから数日後に大勝利の大集会がありました。そのときのことですけれども、ベトナムの革命勢力からすれば、これはフランスと戦ってアメリカと戦ってアメリカに支援された南ベトナム政府と戦って30年間で大勝利を得たわけです。その勝利を祝う大集会でこの革命闘争の始祖であるホーチミンの金言というか言葉、この言葉のために我々は戦ったんだろうっていう格言をばーっと掲げたのです。

 当時のサイゴン、いまのホーチミン市の中央にあった旧南ベトナムの大統領官邸の最上階の前部に掲げられた巨大な横断幕にその金言は大書されていました。日本語でいうと「独立と自由より貴重なものはない」という言葉でした。当時の私にはまだまだ日本の戦後教育の影響が残っていたせいか、なぜ平和という言葉はないのか、といぶかりました。こんなに長く激しく戦ってきてやっと平和を得たのだから平和という言葉があってもいいのではないか、という疑問でした。でも平和という概念はそこにはない、あってはならない、あえて排除されていたのです。たとえ平和を犠牲にしてでも、独立と自由のために民族として国家として戦わなければならない、という考え方なのです。この基本姿勢はほかの諸国も実は同様なのです。自分たちの独立と自由のためには平和を犠牲にして戦う。これはいまのウクライナがまさにそうですよね。平和を絶対に優先するならば、国として降伏すればよいわけです。一国家が外部から攻められたら平和のために必ず降伏すると宣言していたら、国家ではなくなります。

 世界のこうした現実を私は40年前のベトナム戦争のときに知ったわけですが、当時の日本の政治家のなかでそういう認識をもっている人は非常に少ない、とくにシニアの政治家になればなるほどそういう感覚は薄いという状況でした。

(つづく)

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